『ティティプー見聞録』座談会

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『美しい星』から『ティティプー見聞録』へ

森澤 今回の上演に向けてのわれわれの問題意識、および今回の作品を取り巻く問題圏について、様々な角度から洗ってゆくことができればと思います。
それではまず、今回の作品の企画趣旨についてですが、前回の『美しい星』を経て今回の作品へ向かうときに、前回の作品で何を問題として取り扱い、それをどのように現在総括しており、そのなかでいかに今作が構想されたのかというところから始めましょう。

川口 『美しい星』の上演の動機としては、三島由紀夫がキューバ危機という核をめぐる問題を考えるにあたって、「宇宙人」という存在を召還して小説『美しい星』を書いたということが、2012年の時点において3.11のことを考える際にどういう示唆を持つのか、また50年前と今とでどういう違いがあるのかといったことを考えようと思って始めたわけです。それで、構想を進めてゆくなかで、三島由紀夫が安部公房との座談会の場で『ゴドーを待ちながら』が話題にあがった際に、あの作品において「ゴドーが来ないのはけしからん」と言っている。小説『美しい星』の最後にUFOが来るということと、この「ゴドーが来ないのはけしからん」という発言とをあわせて考えた時に、それはどういう意味を持ってくるのか。『ゴドーを待ちながら』という作品をベケットが書いたというのは、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経るなかで——つまり、ある人間や社会について、神をもとにしながらより良きかたちを目指してゆけると思っていた信頼が崩れてしまったなかで——、神が来ないかもしれないにもかかわらず、どういうかたちでわれわれは戦いつづけてゆけばよいのかということが前提としてあったのだと思います。それが日本に入って来たときに、超越的なものに対する思考なり言語がどれだけわれわれにあるのかという問題が出てくる。であるがゆえに、日本で上演される場合には、退屈な日常をいかに面白おかしくやり過ごすかというかたちでの上演が大半を占めてしまう。だから三島はそのような日本という場所へ抗って、そこへ超越性を導入するべく、天皇を召還しなければいけなかったし、UFOを呼ばなければいけないということになってきたのだろうと。そのような読み方に至って、それをそのままと言ってもよいくらいに、どういう風に読みます、こういう風に読みましたというのをもうそのまま舞台上に出したのがこの前の『美しい星』だと考えています。

森澤 ではそのような上演が試みられたとして、今回の作品に臨むにあたって、どのように問題意識が引き継がれたのだろうか。『ミカド』を選ぶに至った経緯としては、どういう文脈で『ミカド』が導かれてきたのか。

川口 スムーズに繋がっていないところがあるのだけれど、まずぼくの大きな意識としては、その時に俳優について考えたというのがある。『美しい星』が終わった後に大きく考えたのは、近代演劇とはいったい何なのかということです。
近代演劇を考えるにあたって、重要なのは主体の問題であると思っていて、たとえば俳優がある目的を持って何かに向かってゆき、何かの障害が出てくるときにそれを克服する、あるいは衝突するなかで敗北する。その時には、なにがしかある目的を持っている必要がある。これが近代の自立的な主体であると言ってよいと思うのですが、それがないと何かに出会い、何かとぶつかってということがそもそも出来ない。
それで、このような自立的主体の日本における問題については、仏教研究者の末木文美士氏が次のようにまとめています。すなわち、日本がモダンの思想と接触するときに、ヨーロッパからそれを輸入しつつ自立した主体を立ち上げていくんだけども、その時にヨーロッパにおいてはもうすでにポストモダン的なる思想——たとえばニーチェからオカルト趣味までを含めたものとして―—が語られていて、その両者が同時輸入されるかたちで癒着してしまったのだと。近代的主体というのはそもそも必然的に寂しいものであり、その寂しさをどうやって引き受けるかというところも含めて近代のはずなのに、その寂しさをポストモダン的なる思想によってうまくヒーリングしてしまって、自立的主体というものが寂しさを抱えながら自分で判断してゆくということの思想的な契機が失われてしまった、というようなことを言っています。
そのような問題を考えるなかで、日本の明治から大正初期くらいの主体をめぐる言説をいろんな形にコラージュしながら、それを俳優が喋ってゆくということを通して、現在の俳優の主体というものと、その言説とがどういう風に結びついてくるのかというのを考えてみたい、と言うのが最初の僕の目的・目標だったんです。そして、そこからどういう形で実際の上演として具体化していくかというときにたまたま思いついたのがティティプーという『ミカド』の舞台となる町の名前を使ってティティプーを見聞するというかたちにする案で、そこは様々なテクストを流し込む土壌になるだろうと。それで、『ティティプ—見聞録』という話を考えたわけです。そうして『ミカド』を出発点にするとなったときに、海外の人によってエキゾチックに書かれた作品なわけで、日本がどのように表象されてきたかという問題なり、他国をどのように表象するかという問題も出てきて、その時にオリエンタリズムということをどう考えるかとか、表象を巡る問題というのも考えざるをえなくなってきたということがあります。

森澤 合わせて自分の方からも別の角度から補足しておくと、前回美しい星をやる際に先ほど川口が話したような見立てで三島のことを考え、上演したわけですが、そうしてみたときに、よくある、神(唯一神)なき日本という図式になってしまう。それに対して梅原さんから、日本という国が多神教の土壌にある一方、西洋というのは一神教の土壌にあるといった見立てはかなり危ういものがあるだろうという示唆をいただいて。そのことに導かれながら、日本人の自己像という問題を考えてゆく必要があるだろうというところに至ったわけです。
浄土真宗なりなんなり、そもそも日本の中世という時代がかなり一神教的な宗教意識が仏教に限らず諸宗の間で盛り上がっていた時代なわけで、多神教対一神教という単純化された図式を作ってしまうとそういったものが見えなくなってしまうし、そうすると古来より続く日本の本質といった語り方になってきてしまい、それはこれからも変わらない本質として固定化されてゆき、変革の可能性を考えることもできなくなってしまう。
そのような日本人の日本に対する自己意識というものが、他者からの眼差しとどのような関係を取り結ぶなかで生まれてきたのだろうか、というような方向にこの題材でもっていけるのではないかというところも大きな問題意識としてあります。

近代人の寂しさの起源

佐々木 二人の話しを聞いていて、どういうふうに前提を出すかというのをもうちょっと話した方が良いのかなと思うんですね。近代主体は寂しいというのはいろんな前提の中でみんな頷けるクリシェであるわけだけれども、上演する側は、では、なぜ近代主体は寂しいのか、そここそを問い、また語らねばならないのではないだろうか。なぜ近代主体は寂しいのだろうか?

川口 これもクリシェ的な言い方ではあるのですけれども、近代主体というのはゲマインシャフト的な社会からゲゼルシャフト的な社会へ行こうしなきゃいけないわけですよね。村共同体の中で何か話を聞いていたところから、それとは異なる、身近なところでないところから新たな共同性を想像し、その人たちと関係を取らないといけなくなってくる。

佐々木 であるとすれば、村共同体に何か不満があったわけだ。もしくは、何かがうまくいかなくなったわけだ。なぜ村共同体から、いわゆる村共同体じゃないところへいくのだろうか?

梅原 公式的に答えれば、交換が激しくなったからですよね、経済的コミュニケーションと言ってもいいんですけれど。人間も物品も移動をしないといけなくなった。

佐々木 江戸時代は、例えば農民として隣村へ移る、農民として移動することは困難だったと。それが出来るようになったというのがあるわけだよね。これはもちろん江戸時代にも例外が山ほどいるわけではあるけれど。
それがどうやら共同体のモデルとして村共同体じゃないモデルが生まれてきた。では、それはなぜだろう?逆にいうと、江戸時代はなぜ村共同体でよかったのか?それは、ひとつには国民国家ではなかったからというのがあるわけでしょう。じゃあ国民国家って何なんだろうということになる。
いろいろな言い方があると思いますが、重要な点として、国民国家であるということは、それまでと異なってさまざまな義務もでてきてしまうわけだ。政治的判断をすることは、その人の権利とされるが、国民国家における主体としての義務でもあるわけだよね。どんな判断を国家がするにしても、その判断にあなたも関わっていますよということになってしまうし、させられてしまう。これはある意味でとても辛い事態なわけで、たとえば私は政治に興味ないから責任はありませんというのが言えないことになってしまう。これをぼくは、近代主体は常に危機に晒されているというように考えている。

川口 権利というものを外部から勝手に引き受けているということにされてしまうということですね。

佐々木 その権利というのはめでたい話しでは全くなくて、その権利の範囲のなかであなたの義務を果たしなさい、政治を変えたいのであればあくまで政治で変えなさいと言われてしまう。議会ですべてを決めるのであれば、議会でのみ行いなさいとね。

川口 社会契約というものを皆が行ったということに外からされてしまうということなのだと思うのですが、ではその時に先ほどの話しに戻ると、近代的主体の寂しさというのは、そのときに外部から契約させられた者の寂しさということになるのでしょうか。

佐々木 外からではない、自分から契約したのだと言える人はそのディシプリンの中に自らをはめていくわけだけれど、なかには、興味がないのにやらされてしまうという人もいる。近代のシステムのなかで知識人たちでさえ懊悩するくらい多くのことを考えなくてはならないのに、考えることが苦手だと言う人にとってはなおさら辛いことだと思うし、それゆえに出来るだけ考えないですむような答えに、分かりやすい方に流れるというのはよく分かる話ではある。
一方で、自分から契約したのだという人の側では、近代人は皆が対等な個人であり、皆が権利を背負っているのだと思っているのに、どうやらそういったことをやりたがらない人もいるらしいとなったときに、この人と自分は違うんだと、この人は近代主体として考えることを放棄している人だと思うわけだ。けれども、それでも自分と同じ平等な個人だということになっている。こうしたなかで徒労感が生まれてくる、まるでトロイのカサンドラのような。
つまり、近代人には二つの寂しさがあるわけだ。近代のシステムを理解できなことからくる寂しさと、理解しても皆がそれをできるわけでないということからくる寂しさ。

川口 そのことと個人の内面の問題とがどういうようにつながってくるのかを考えたいのですが、近代に至って、人が考えていることはわからないという意味での内面の発見が行われ、それゆえに恋愛や友人関係において寂しさが生まれたりしてくるということがあるわけですが、そういった話と今の話はどのようにつなげて考えればよいんでしょうか?

佐々木 近代のディシプリンにはまらない人は、本当のおれは他にあるんだと思うだろうし、また近代のディシプリンのなかでやっている人はこれはあくまでディシプリンだから本当の俺は別のところにあるというようにやっぱり思う。どっちも、本当の自分は他にあるというように思う、そのような内面が生まれてくるんじゃないかな。

梅原 「本物のおれがいる」といった幻想が生まれたというのはたしかに特徴的だと思いますね。

『ミカド』をいまどう読み替えるか

森澤 『ミカド』というテキストを『ティティプー見聞録』にするときにどういった戦略を持ち、どういった方針でテキストと向かっているのか、そのあたりはどうだろうか。

川口 基本軸として、『ミカド』をティティプーの抵抗の物語と誤読してみた上で、では、その抵抗がどういうものであるのかをめぐろうという方針を考えています。もちろん、もとのテキストそのままでは『ミカド』を抵抗として読むというのは無理があるわけですが。

梅原 なるほど。それは自治都市が王国に征服されたことに対するレジスタンスのようなものと考えてよいのでしょうか?

川口 そうだと思います

森澤 稽古場でも日本の場合だと堺の町衆なり加賀の一向一揆なりの話があがったりしたのですが、そのような記憶を引き寄せる物語として読み替えてみたときに、では、どのように考えてゆく可能性が生まれてくるのかということを探っていく作業を稽古場では行っているのだと思います。
都市の抵抗という要素のみならず、他にも様々な問題系を吸引するようなかたちでミカドを読み替えてゆく、テキストとしてはひとまずそのように構成していっているところです。

川口 この書き換えにおける「抵抗」というときに重要視しているのが、ミカドの法を引き受けながら抵抗するという態度なんですね。ティティプーの町は、ミカドの法を拒否はしないなかで法を無効化してゆくという態度をどこまで貫けるのか。ミカドが来て罪人を殺せと言われてしまったときにどこまで嘘をつけるのか、という。

佐々木 そうだとするとあわせて、人々がミカドに抵抗するのはいちゃつきのみなのかという問題もあるわけだよね。合意形成がとれたのは、いちゃつきのみだったということなのか。自分に利害が関係しているものにしか反対しないのか。他のさまざまなことには抵抗せずにいるのか。全く関係がないような他人のためには立ち上がらないのか。

森澤 そのことはまさに今日的な問題で。震災からの二年強で浮上してきた問題として、生活というものを根拠とした運動にどこまで有効性があるのかという点があるわけですね。そもそも第五福竜丸事件の頃から続いていることでもあって、衣食住に関わることのみが運動として盛り上がるという。

梅原 特定秘密保護法案の反対運動でもそうですが、市民運動の大部分は自分の生活は守り、欲望は守り、それぞれのできるところでやりましょうということになっているわけですけど、多分それは限界に来ているのだろうと思いますね。それだけで社会的な運動をしよう、自分のことに振りかかってこないとしませんというのは、全部ではないのですが、多くの市民運動の限界として露呈しているのだと思います。

川口 たとえば、いちゃつき禁止法に抵抗するために人の首を切るというのはオーケーなのかというところも問題化しようと思っているんですね。そのようなそもそも論も含めて、何に抵抗しているのかについてどう問題化できるかだと思っています。抵抗することがなんでもかんでも無前提に善いということではないわけで、どういう社会を作ってゆくのかということがあったときに、抵抗ということが問われてくる。そこにどう切り込んでゆけるかということを考えています。

抵抗権としての天皇?

川口 『ミカド』から出発する際に避けられない問題として、天皇の問題が出てくるわけですが、いま一般的に天皇制が批判されるとき、戦争責任の問題とセットになるわけですよね。戦争責任の問題ががぐだぐだに雲散霧消したことが空虚な中心と言う言説を引き寄せながら、なんでも困るとそこに逃げ込んでしまえる平べったい空虚な存在として天皇制があるというかたちになると思うんですけれど。

梅原 『ティティプー見聞録』では、ミカドをどこまで実体的に描いているんですか?たとえば、社会契約といった時に出てくるホッブズのリヴァイアサンにおける君主は機関としてあるわけですが、さっきからの構想を聞いているとミカド=機関というようにも聞こえるのですが。

川口 いまラストシーンをどうするか考えているんですが、機関にすぎないというはなしにしようかなと思っていて。皆が天皇に報告する、それに対して、天皇は報告されたものを聞こしめす。すなわち、聞くことがまつりごとであるという意味での機関。

森澤 一方で、元々の『ミカド』では立法権を独占する東洋的絶対君主たるミカドとして描かれているわけで、そこのところの距離というものをどう考えたらよいのかということがあって。「彼ら」から「われわれ」への眼差しを書き換えるなかで何が見えてくるのかということを考えているわけだが、この場合、立法者としての天皇と聞く天皇という両者の緊張関係のなかでどのように考えてゆけばよいのだろうか。

川口 そこが難しいから、まだラストに悩んでいるんだよね。

佐々木 話を飛ばすと、明治天皇は全ての土地へ御幸に行こうとしたわけだけれど、天皇制を唯一擁護できるのも皆を一視同仁にするという部分であるわけだ。それが天皇によってしかなされないこの日本という酷さはもちろんあるのだけれども。村社会等が生んだ差別問題をちゃらにできたのは天皇だけだという。それは非常になさけないし、そんなやつらは近代人でもなんでもないと思うが。

梅原 新平民の問題ですね。よく思うんだけれど、血税一揆にはほぼもれなく「新平民承認反対」のスローガンがついてくるんですよね。

佐々木 村共同体にとっては奴隷的な存在が必要だったわけで、だからその身分を世襲させる、そしてそれをちゃらにできたのは天皇しかいなかったという。だから天皇制を100%批判するということができないのはそういうところの問題があるんだな。
よく言われる、日本の憲法には抵抗権がないという点。実は抵抗権の代わりにあるのが第一条だというふうに考えてみることができるのかもしれない。三島はそう考えたんだろう。

森澤 なるほど。三島はそうでしょうね。『文化防衛論』にしても、アナーキズムを内包するものとしての天皇というかたちで位置づける。

梅原 そうですね。それでかわいそうになってくるのが二・二六の青年将校。

佐々木 なんか、これだけ聞くとおれがだんだん熱烈な天皇支持者になろうとしているみたいだけど。たとえば、憲法を書き換えて、天皇を国民の抵抗の象徴として置く。政府が国民によからぬことをなしたとき、考えたときには、天皇すなわち抵抗権をもってこれにあたる的な。

森澤 大変面白いわけですけれど、たとえば千坂恭二氏なんかはそれにかなり近いことを言っていて、神武の降臨を外部注入論として読み変えることによって、天皇を革命の担保として位置づけるべきだという。

佐々木 これは、仕掛けを考えないといけないね。これは制度による革命の権利なわけだから、永久革命のシステムとして考えなくてはならない。つまり、革命後にその首謀者が独裁的な権力を握ってはならないんだよ。となると、武家が権力を握るときに行われてきたような天皇の在り方か、または近代人が行う権力の施行、つまり、革命後の天皇は近代法によって裁かれるというようなね。

梅原 なるほど。じゃあ、そこで例外状態を限定するわけですね。

佐々木 山本太郎の問題で、天皇の政治利用ということが言われたのだけれど、そもそも天皇は政治利用されているじゃないですか。何かに反対するならば、これはこうであるとされているという前提をはずして捉え直す必要がある。現行憲法は過去にも未来にも前提にはならないが、現在前提とされているならば、その前提にある仕掛けをあらゆる方向から考えたっていいんじゃないですかね。

川口 立憲主義としてよく言われるように、憲法は政府に対して人民が突きつけたわれわれの文言であるというのならば、第一条についても、天皇はわれわれのシンボルだと書いてある、これをどう使うかはわれわれの自由じゃないかと言えばいいってことですね。

自由民権運動と純愛

川口 抵抗権が書き込まれなかったということに関してですが、最近福田善之の『オッペケペー』を読んだのですが 一般的に川上音二郎は自由民権をやっていたのに日清戦争を経て国権へいくということで批判されますよね。しかし小笠原幹夫という研究者も言っていますが、そもそも自由民権運動は民権と国権が同居するものであったわけで、それは音二郎だけでないだろうと。自由民権運動自体を問わなければならないと思うのです。なぜ自由民権運動がそうであるのかを考えることが必要だろうと

佐々木 ぼくと梅原さんが最初に一緒に喋ったときの話題も、自由民権運動に問題があるという話でしたね。

梅原 そう。たとえば、もれなく征韓論がくっついているわけですよね、ほんとにもれなく。
ただ、そこで大事なのは、先ほどの内面の話に戻ると、北村透谷が爆弾テロの話を聞いて自由民権運動から離れ、恋愛に走るわけですよね。これはきわめて重要で、柄谷行人を持ち出すまでもなく、内面というのは敗北によってもたらされるわけですね。そして、それは今に至るまでひきずっている。いま寂しいということは、多くの人の抱くところで、近代人の寂しさというのがなぜクリシェになっているかということを自由民権運動から考える必要があるのだろうなと思うわけです。
なお、わたしは映画『風立ちぬ』を観ていて、純愛イコール近代化なりという説にたどりついたわけですが、これも今の話の言い換えであるわけですね。

佐々木 純愛というのは「本当に愛している」と約束として言わなければいけないようなシステムとしてある。そこで語られる「本当」というものを問わねばならないわけだけれども。

川口 「本当に愛している」という話で言うと、夏目漱石の『行人』において、主人公の兄が相手の「本当」の気持ちがわからないから一緒に旅行へ行こうという話になるのだけれど、彼はオカルティズムにまではまってしまっている。そこまで追い詰められちゃっているんですよね。それとパラレルに考えられるものとして、石原莞爾が妻へ送る手紙というのがありまして。お前も一緒に帰依してほしいというようなことを切実に書き送っている。妻に「本当」の愛を求めて、国柱会へと誘っている。このつながりをどう考えればよいのかということがあります。石原の場合、それが「世界最終戦争論」につながっている側面もあるわけですし。

日本という場所の特殊と普遍

森澤 冒頭にも触れましたが、日本論ということ、日本の「本質」という問題について。西洋的な一神教とそれに支えられる近代主体を一方に立てて、その反対側にそれを乗り越える可能性をもつ多神教の神々の国・日本というものを仮構するということが近代日本において屢々行われてきたわけです。そして、日本は「悪い場所」なのだと諦念するのならば、先ほどのような戦略的天皇主義にいきつかざるをえなくなってくるところがあると思うんですが、一方で、そうしてしまうとその「本質」に対する切断の可能性が失われてしまうということがある。もちろん日本という本質など無いといってしまえば当然無いわけで、さまざまな偶然の結果として日本という場所もできあがっているわけですが、しかしそのように偶然の累積でしかないのだといってみたところで目の前にいかんともしがたく「悪い場所」があるではないかという実感もある。そのように考えていった場合に、非常に困難な状況に追い詰められてくるんですよね。果たして、日本において、天皇を持ち出すのではない変革の戦略はありうるのでしょうか?

佐々木 もちろん、ひとつには、さっきの近代主体を貫徹するということがあるわけだよね。

川口 その際に、どうしてもぬぐいがたく天皇というものを考えざるをえない状況に置かれている。

佐々木 うん、どうやら貫徹することが日本国民には無理だろうと皆が思っている。どうやらこの近代主体というものには無理があるようだ、と。

梅原 問題は、共産主義だと思うんです。ましてや昨今のいわゆる「公共圏」において、社会主義を考えることすら難しいといった時に、天皇とはちがった変革というものを具体的に考えるのはかなり難しいという現状はある。

佐々木 共産主義を貫徹できる主体がいるのであれば天皇は不要なわけだが、しかしそれが皆できないとなったら、どうするか。みんな自分の欲望を担保にしたいし、ある程度の不公平には目をつぶるし。そうしたなかに天皇はいる。

梅原 フレドリック・ジェイムソンが今までの左翼は政治的な支配ばかりを問題にしてきたのだが、経済的な搾取をもう一度問題にすべきではないかと言っていて、非常に頷くところがあるんです。反秘密保護法案や反原発の運動においても、搾取の構造を問題にしない。原発にしても、本来、都市と地方の間の搾取の構造という問題から始まっているんですから、そこを考えないで何を言っているのかと思うわけですが、やっぱりそこまで踏み込まねばいけないだろうと思います。講座派と労農派にしても、最初は搾取の話から出発して、政治の話になったときに、非常におおざっぱに分けると、講座派は政治の話もしたんですが、労農派は搾取の話しかしていない。ということで戦後は講座派が主流になった。しかし、やはり労農派およびその分派の宇野派を含めて考えねばいけないところはあって、天皇制と資本と言う問題、経済とイデオロギーとの関係がほとんど日本では考えられてこなかったと言っていいと思うんです。

佐々木 天皇を持ち出すのではない革命をイメージすることは可能だが、そこに人が耐えられないのは、経済的な問題を近代は抱えたままでいるからだよね。近代主体は経済的に恵まれている人しかなかなかなれないものとしてある。

梅原 いろんなものを排除して、資本主義のなかでなんとかしましょうということを無前提に皆がやっているからね。

森澤 そうですね。いずれにせよ、経済の問題はわれわれもいつか扱わねばならないと思ってはいるのだけれども。

梅原 でも難しいのは、資本を表象するということの困難ということについてはジェイムソンも言っているんですね。

森澤 『ブレヒトと方法』もそこを主に論じるものでしたね。

梅原 しかも演劇でそれをやるのはけっこう難しい。ベタに工場労働の厳しさを言えばそうなるかといえばそうもならないわけで、たとえば久保栄もそこに行きあたったのだと思う。つまり、労働者が戦うのを描いているというのが経済を描いているかというとそうではないわけで、リミニ・プロトコルがベタにやったようなことも一面では正しいと思うんですよね。『資本論』をもってきて元共産党員に読ませるというような。

川口 いま、久保の劣化版のようなかたちで労働基準監督官を題材にしたドラマがやっているのですが、そこでは構造自体を扱うのではなく間違っている人間がいるからそれを正すという話になっているんです。経営者が悪だという、つまりキャラクターの問題になっているわけですが、本当に問題はそこなのかと。キャラクターを描いても経済の表象にはならないわけで。

佐々木 難しいのは、表象するにあたってどこかに区切らないといけなくなるんだよね。『ナニワ金融道』にしても、どこかに視点を設定した上でそこから見えるものを描くという時にある限界を持たざるをえなくなる部分はある。いわゆるマクロとミクロを持ち出すならば、ミクロを通してマクロを想像させるといったことしかできない。しかし関曠野さんが言っているのは、我々が日常関与している経済は全体の5%にすぎないと。では残りの95%をぼくたちはどういうふうにみればよいのか、表象すればよいのか。金融ものなどがあっても、ヒューマンドラマとしての表象は可能だが、経済を描くことにはなっていない。

オリエンタリズムと日本、アジア

森澤 『ティティプー見聞録』を考えるときに大きな問題としてオリエンタリズムということを考える必要が出てくるわけですけれど、日本に関するかたちでオリエンタリズムを考えるときには、加害者性と被害者性の両側面をどう考えるかということがどうしても出てくる。西洋近代によるエキゾチックな表象の対象と同時に、われわれ自身もピュアな被害者ではないわけで、アジアという問題がそこで浮上してくる。

佐々木 その点、ネットに散見されるような右翼言説はピュアなアジアの日本が好きなわけだよね。植民地主義に立ち向かい独立をみずからの力で勝ちとろうとしたというような。

森澤 そして、その独立の動きに対して、日露戦争から第二次世界大戦まで含めて刺戟を与えてきた指導者・日本という構図になってくる。

佐々木 大東亜共栄圏というのも、アジアの開放というのも、日本だけが示し得た誇り高いビジョンであるという。

森澤 しかし一方で、アジアの問題でリベラルがどうかというときに、たとえば演劇界なんかでも大いに流行している「多様性」という言葉、それでもってアジアを捉えていると言っていいと思うんだけれども、その「多様性」の名のもとに行われていることは、結果的に自己の中心性を強化するものでしかないんじゃないかとも思うんです。

梅原 フレームを決めておいて、その中でだけ徹底的に差異化をしていくわけですよね。

佐々木 フレームを決めているということは、隠しているわけだ。本当はそのフレームの外にこそ多様性があるのに、その中にだけ多様性というものを認める。ぼくが「表現愛好家」と呼んでいるのはそういう人たちで、多様性を認める自分が政治的にも文化的にもリベラルですよという承認がなければ落ち着かない消費者がいるわけだ。その人たちのために、「多様性」を謳った演劇なりなんなりが、そういう商品としてある。ここには様々な「多様性」が詰まっておりまして、それを享受しているあなたたちはかなり「多様性」のある人間ですよと、そこにいけば保証される。

森澤 バルトが『表徴の帝国』でヴォルテールに代表させて批判している、オリエンタリスティックなアジアへの眼差しと同型なわけです。オリエンタリストたちだってアジアを蔑視するばかりでなく、エキゾチックにありがたがっているわけですから。

川口 アカデミズムの方でも、いま他者探しにやっきになるという傾向が強いと指摘されていて、日本だけでなくグローバルな問題としてそれはあるんだろうとも思うんです。なぜ他者探しをしなければいけないのかという問題。演劇においても当初から他者というのは重要な問題であったわけで、ジョージ・スタイナーは悲劇を定義する際に、他者性に出会う瞬間こそが悲劇であると言っていますが、そういったことを含めて、他者探しの流行というのをどのように考えていくか。

佐々木 さっき近代主体の難しさを言ったけれども、やっぱり皆近代主体に縛られてもいるわけで、近代主体が他者からもたらされるというのは皆信じているんですよ。だから、他者がいない自分というのはありえないと気づいたときに、そうであれば都合のいい他者が欲しいいうことになる。自分が脅かされない程度の頷いてくれる存在が欲しい。それが、今求められている他者なわけだ。
どうやら皆オナニーという自己満足型の有り様を怖がっているようである。学生時代からさ、文章書いたり、舞台をやってるとそんなのオナニーじゃんとほんとによく言われるんだよね。想定できる他者との交歓こそが表現であるというような前提が何故かつきまとう。オナニー的表現というものは、もしかしたら、想定し得ない他者に向かって投げかけている/投げかけかれた問いなのかもしれないのにね。なぜそんなにオナニーに立ち会うと人は脅えるのか。

森澤 オナニーと言われることを回避するためのアリバイとして、オリエンタルな眼差しが導入されている。

川口 そもそもどう考えても、他者というのは探して出会うものじゃないわけじゃないですか。出会っちゃうものであって。

佐々木 すでに言葉が通じない人間というのはそこかしこにいて。その人に通じないというのは日々あるわけだ。だけど、探すのは通じる相手を探している わけであって、それは他者ではないんだよね。同志ではあるかもしれないけど。

川口 様々な他者性を並べてみるのは博覧会ですからね。

佐々木 だから佐伯隆幸さんが言うのは、アングラは他者に出会っているんじゃないと。他者を演じたんだと。言葉の通じない人間になってやるという。
宮崎滔天がなぜ革命からいったん身を引いて芸のほうにいくのか。つまり主義・理想は分かる人には分かると。だが、分からない人にどう伝えていいのか分からないから芸に身を移して語り始める。そして、そこで語っていることは徹頭徹尾政治的なことなんだ。彼は気付いたんだと思う、人がもつ理屈ではない感情の部分こそが変えがたいし、それこそがシステムなのだと。彼が向かったのは、共同体意識とどう対峙しうるのかということなのだと思う。

森澤 まだどうなるかわかりませんが、今回の作品でもわれわれのアジアに対する眼差しというところまで辿り着ければというところがありますね。本日はわれわれの問題意識が整理されたとともに、有益な示唆を多くいただけたと思います。どうもありがとうございました。

佐々木 それじゃここらで、われわれも天皇よろしくビールでも聞こしめしますか!