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お知らせ

シアターアーツ編集長交代に対する声明2015年 3/5 (木)

シアターアーツの藤原央登編集長から、「一身上」の都合で編集長を降りたとの連絡がありました。
藤原氏は引き続き編集部には在籍しており、編集長代理として野田学氏が就任。ピーチャム・カンパニーからシアターアーツ編集部への要求(川口の論考不掲載への見解・論考・批評)は、藤原氏が編集長であったときに提案され、編集部によって却下されたとのことです。
シアターアーツは3月4日に更新されていますが、人事については記載されていません。
編集長交代の経緯説明を求めるとともに、シアターアーツ編集部に対して、不掲載問題への応答を引き続き要求します。

シアターアーツ原稿不掲載問題をめぐる座談会2015年 2/19 (木)

川口典成の原稿「儀礼と演劇、近代を再考する手つきについて―SPAC『マハーバーラタ』ステートメント批判」が、Webマガジン「シアターアーツ」に掲載するということに一度はなりながら、その後一転して掲載不可ということになった経緯について先日公開したが、その経緯をめぐって『シアターアーツ』歴代編集長を招いての座談会を開催しました。その座談会の記録をこちらに掲載しております。

シアターアーツ原稿不掲載の経緯について2015年 1/21 (水)

2015年1月21日に「ワンダーランド」に掲載された拙稿「儀礼と演劇、近代を再考する手つきについて――SPAC『マハーバーラタ』ステートメント批判」について、その経緯を説明させていただきたい。

当初、この原稿はWebマガジン「シアターアーツ」(2014年12月末更新分)に掲載予定であった。昨年、11月26日、シアターアーツの藤原央登編集長宛に草稿を提出。12月9日、編集会議の決定事項として、編集部からのコメントを反映し、書き直したものを掲載との連絡が来た。12月24日、最終原稿を提出。同日、編集委員のなかで見解が分かれているとの連絡があり、詳細を確認するメールを送信。その後、音沙汰がなく、12月27日にコメントは十分に反映されているが、掲載不可との一報。24日の時点で、前回の編集会議に出席していなかった編集委員から反対意見があがり、もう一度協議したとのこと。コメントが十分に反映されている以上、掲載するべきであると強く抗議しましたが、最終的には掲載不可との連絡が来ました。

これは、シアターアーツ編集部での意見共有の不徹底によって起きた問題を、書き手に押し付ける行為であり、国際演劇評論家協会という書き手の集団によって運営されているWebマガジンが、そのような書き手を蔑ろにする行為を行うことはたいへん遺憾であり残念であるとしかいいようがありません。また、最終的に連絡が来た掲載不可の理由は到底納得できるものではありませんでした。やりとりのなかで感じたのは、「シアターアーツ」はSPACの演出家である宮城氏批判は掲載しない、あるいは、宮城氏の機嫌は損ねたくない、という強いメッセージです。

以下に、編集部とのやりとりの一部を公開し、また、シアターアーツに送付した最終原稿を掲載します。この原稿は「ワンダーランド」掲載のものとは構成が異なるが、同じ内容の原稿をピーチャム・カンパニーのWebに掲載することを許可していただいた「ワンダーランド」にはこの場を借りて感謝します。

藤原編集長より来た最終的な掲載不可理由は以下のとおりでした。


掲載見送りの一番大きな理由は、宮城氏のステートメントだけを取り上げてそれを批判するのはあまりに局所的であると一般読者に受けとめられる可能性があるということでした。なお、長考したとはいえ、編集部内での意思疎通の取り方に不備がありました。そのため、川口様にお手数をおかけしましたことを編集長として改めてお詫びさせていただきます。申し訳ございませんでした。以下、編集会議で挙がった意見を記させていただきます。

l 内面化したオリエンタリズムが作動しているという指摘は、高橋氏の文章(引用者注:『テアトロ』2014年11月号掲載、演劇批評家高橋宏幸氏による『マハーバーラタ』評)においても述べられており、議論として成立している。それを踏まえ、宗教と芸術の関係を近代性というキーワードで考察した内容には読むべきところがある。そこの部分は、修正によって論理に貫徹した道が見えたということで、掲載を可とする意見も出た。しかし、初稿と変わらず、個人名を挙げての宮城氏のステートメント批判を大前提にするのであれば、どうしてもフェアネスを確保するためにさらなる精度が求められる。そのためには論点に関する外部参照だけではなく、宮城氏自身が立脚している言説をさかのぼって検証することが必要なのではないか。
l 演劇上演を「「天」に対しての約束」「収穫祭と同種」と述べることで、演劇の宗教性が日本という文脈において安易に天皇制へと横滑りしてしまう危険性の認識は共有する。しかしながら、それは宮城氏自身が演劇上演を新嘗祭と同種のものと捉えているということにはならない。本論考は、その点で「もし宮城が~としているならば」という仮定を設けてそれを批判していることになる。これはフェアとは言えない。同旨の問題は、「自らの演劇の上演のための方便」として彼のステートメントを批判する場合にも当てはまる。繰り返しになるがこの仮定は、宮城氏自身が立脚している言説と、彼の実際の発言の記録を参照することで詳細に検証することが必要となる。
l 個人のステートメントへの批判という姿勢が一貫しているため、この論考の受けとめられ方の可能性を狭めてしまっている。問題を拡張した部分は充実した議論であるがゆえに、その点が残念である。


また、その後、2015年1月13日に、突然藤原編集長からメールがあり、原稿について再度検討したとの連絡。編集部で誤解があったことが判明した、ふたたび原稿にコメントをつけるので、その部分を書き直してもらい掲載したいという不可解な連絡が来ました。
おそらく、ピーチャム・カンパニーがこの原稿の一件で『シアターアーツ』歴代編集長を招いての座談会を開催する(後述)という連絡と、ワンダーランド編集部から川口原稿を掲載するとの連絡がほぼ同時にシアターアーツ編集部に届いたことから、なにかしらの対応を考えたという形なのだと思われます。
その再検討のメールにも問題があり、先方からきた原稿への新たなコメントは、「宮城批判」にうけとられるところを、薄める、あるいは削除してくれとのコメントでした。たとえば、「宮城氏が全体主義的なものへと傾注しているとの誤解を与える」ため修正するように、とコメントが入っています。わたしの文章は宮城氏の発言の危険性があるということを主張しているのですから、「誤解」ではありません。明らかに宮城氏に不利な発言は控えろという検閲だと考えます。

最後に、再検討の連絡への川口の返信を掲載します。

藤原様

整理させていただきます。
まず、最初の原稿についてのシアターアーツさんからの判断は以下のようなものです。

宮城さんのス テートメント自体については、
「天」や「収穫祭」といった言葉の印象が強いですが、
観客への目配りもされている、という意見がでました。
そのため、宮城さんへの批判よりも、ステートメントから川口さんが思考する、
演劇や社会状況への危惧という面を強調された方が良いという話になりました。

そういう意味では、
「問題を拡張」された部分が重要になってきますので、
丁寧に記述いただけると原稿の意義が強調されてくると思います。


今回のメールで書かれていることも、基本的には同じことに趣意かと思われます。これは最終的にいただいた掲載不可の理由の三つめの理由「 個人のステートメントへの批判という姿勢が一貫しているため、この論考の受けとめられ方の可能性を狭めてしまっている。問題を拡張した部分は充実した議論であるがゆえに、その点が残念である」とも同じであると思います。

まずは、最初のメールに即して応答します。
二点あります。
・「観客への目配りもされている」ということでコメントをいただきましたので、きちんと応答させていただきました。原稿では「もう少し正確に書こう。たしかに宮城も「単に観客に向けて行われる行為にとどまるものではなく」また「観客に対して結んだ約束にとどまらず」という言い方をしている」から始まる部分です。つまり、この目配りは「二重性」とは言えない、というのが私の主張です。その文章が論理的でないということであれば、そのことについて説明をお願いいたします。
・「問題を拡張」する部分が重要になるとのことでしたので、議論を発展させました。今回のシャルリー・エブド襲撃事件を考える際にも基礎的な部分になる「宗教と公共性」についての提言です。それは、最終的な掲載不可の理由にあっても、「充実した議論」と評価していただいています。宮城氏のステートメントに現れた問題を「拡張」するのですから、「拡張」」した部分に宮城氏への言及(直接的ではなくても)が含まれるのは当然ではないでしょうか。

次に、今回いただいたワードにしるされたコメントですが、「宮城氏が全体主義的なものへと傾注しているとの誤解を与える。そういう予断を排すためにも」を読んだときに愕然としました。わたしの主張は、宮城氏のステートメントに含まれる危険性について述べているのであって、つまり、「誤解」ではなく、それこそが主張です。もちろん、それは宮城氏の演劇活動全体ではなく、ステートメントをめぐる批判です。「そういう予断を排す」というのは、わたしの議論の受け取られ方が「狭まる」からではなく、明らかに宮城氏を直接的に批判するのは控えろといっているのと同じだと考えます。このコメントに含まれているメッセージは「宮城氏は全体主義的なものへと傾注していない」というものであり、それはわたしの主張とは異なります。異なる主張があるときに、それを修正しろというのを検閲というのではないでしょうか。

せっかくですので、最終的な掲載拒否の第二の理由にも応答しておきます。「しかしながら、それは宮城氏自身が演劇上演を新嘗祭と同種のものと捉えているということにはならない。本論考は、その点で「もし宮城が~としているならば」という仮定を設けてそれを批判していることになる。」とのことですが、わたしの原稿をきちんと読まれたのでしょうか。
「この宮城のステートメントは、演劇は儀礼そのものであり、宗教的な行事であるという表明に他ならない」というのが、私の宮城ステートメントに関する判断であることは明示しています。「新嘗祭」と全く同じだとはいっておらず、ただ、儀礼そのものである、と判断しているのです。「とらえているということにはならない」というのは別のかたの主張であって、そういう主張があってももちろんよいのですが、であるならば、わたしの論理展開のどこが問題なのか、はっきりいっていただきたい。
また、「仮定」を設けているのは、宮城氏が「演劇は儀礼だ」という主張をした真意についてです。二つの場合が考えられるから「仮定」したのであって、ステートメントへの評価を「仮定」のうえに組み立てているわけでないのは自明だと思います。真意については誰にもわかりませんが、二つの場合を考えればそれで十分であり、どちらの場合にしても問題であるといっているのです。

また、その再検討のやりかたにも問題を感じます。
シアターアーツ編集部として一度掲載拒否した原稿を、なぜ私への許可なく、シアターアーツへの掲載を進めようとするのか、理解に苦しみます。
書き手として蔑ろにされているように思われてなりません。

ワンダーランド様に掲載が決まっていますので、シアターアーツ様からの申し出は受け入れられません。
そして、藤原編集長と征木副編集長には、座談会に出てきていただき、掲載不許可・再検討の経緯と、この川口原稿に対する評価、宮城氏のステートメントへの評価を語っていただく義務があると考えます。
征木様からは座談会へのメールに返信がありません。藤原様からご連絡ください。

川口


ステートメント批判として初めから書き、編集部に送っている以上、「宮城氏のステートメントだけを取り上げてそれを批判するのはあまりに局所的であると一般読者に受けとめられる可能性がある」というのは最終的な理由になりえないと考えます。具体的に過去の宮城氏の発言にさかのぼる必要があるなどの理由もありますが、この原稿はステートメント批判であり、宮城氏の演劇活動全体への批判ではありません。そして本文中にて、ステートメントという、「局所的」と思われる部分にあらわれる無意識を問題にする必要性に関しても十分に展開したと考えています。また、編集部がいう「一般読者」が意味するのはなんなのでしょうか。演劇を見ているひとたちという意味なのでしょうか。これは、ステートメントを目にする可能性のある人を、最大限意識しながら書いた原稿であり、だからこそ「演劇と儀礼」という問題をとりあげています。ぜひご一読ください。

編集部からの理由は、掲載不可にするために、あとから理由が考えられたようにも思えてしまいます。年末回顧に『マハーバーラタ』が取り上げられ始めた時期というのもあるのでしょうか。編集部は一定の評価をこちらの論考に与えています。そうであるならば、編集部がとるべきは、演劇評論家として、わたしの原稿と同時に反対の論考を載せるなどの対応であるべきです。
批評・評論というものはそもそも論争的なものだと考えます。わたしの論考は、編集部の対応である「わかっているが、そこまで問題ではない」という意識・無意識が、実は危険なのだという指摘に他なりません。これこそ、丸山真男がいうところの「無責任の体系」の新たな形です。つまり、 北田暁大がいうところの距離化しつつ、体系に従属するナショナリズム(『哄う日本のナショナリズム』)だと考えます。

この件に関して、ピーチャム・カンパニーでは『シアターアーツ』歴代編集長を招いた座談会を予定しております。2月初旬にこのWebに掲載予定です。「ステートメント批判」と、その論考をめぐる「シアターアーツ編集部の対応」とのそれぞれの問題に対して、みなさまの忌憚のないご意見をお待ちしています。

2015年1月21日
ピーチャム・カンパニー 代表、川口典成


シアターアーツ当初掲載予定の最終原稿2015年 1/21 (水)

             「これは儀礼ではありません。儀礼についてのダンスなのです」
                                    ピナ・バウシュ

SPAC『マハーバーラタ』ステートメント批判
――儀礼と演劇、近代を再考する手つきについて
川口典成(ピーチャム・カンパニー代表/演出家)

 演劇は常に儀礼(ritual)めく。もちろん、演劇の発祥が儀礼に求められるからである。神話学者のジェーン・エレン・ハリソンによって書かれた『古代芸術と祭式(Ancient art and ritual)』は、演劇の起源が「春祭り」としての祭式(ritual)にあることを理論的に跡付けた古典的著作である。祭式と芸術に共通する衝動は、胸中に強く感じられている感動や願望を行為として表現することである。ハリソンの主張は宗教的祭式・儀礼と芸術との親近性にとどまらない。重要な論点は、祭式(ritual)と芸術との分離にある。ハリソンは次のように書く。「祭式はいわば実人生と芸術とのあいだの一つの橋をなすのである。それは原始時代に人がどうしてもわたらなくてはならぬ橋と言えよう」。祭式(ritual)は芸術への「橋」である。祭式(ritual)から脱却・離脱することによって芸術が生まれる。このハリソンの論を、『古代芸術と祭式』においてもたびたび言及されるフレイザー『金枝篇』と比較してみると、芸術とは、儀式(ritual)からの「脱呪術化」と関連付けられることがわかる。たとえば、「春祭り」で踊るという呪術的行為の意味は、春(生命力、食糧)を招き入れることにある。だが、天候の不順が続くことがある。すると、呪術の効力に対する信仰は衰退する。集団の一人がこうつぶやく。「なぜ私はこの踊りを踊っているのか」。このつぶやきこそが、演劇の誕生を決定づける。ひとつの集団で信仰されているある価値体系からの脱呪術化、それによる芸術あるいは演劇の誕生。つまり、演劇とは、儀式(ritual)から生まれ、しかしそこから分離したものである。

だが演劇は必ずしも儀式・呪術と無関係になったわけではない。20世紀においても、たとえば、アルトーはバリ島の舞踏に影響を受け、西洋的なロジックの構築による演劇とは別の呪術的演劇を志向したし、寺山修司も「劇はまた呪術であり、俳優は霊媒である」(『盲人書簡(上海篇)』)としてアングラ演劇のひとつの潮流を牽引した。なぜ彼らは演劇における呪術性を主張したのだろうか。呪術からの分離こそが演劇の誕生を決定づけたのではなかったのか。彼らはこう考えたのだ。演劇が演劇としての自立性を確保したことで、実人生と演劇との結びつきが失われてしまった。実人生と演劇との間にもう一度「橋」をかけなければならない。演劇は現実に積極的に介入しなければならない。そして実人生・現実へと至る手段として彼らは「呪術」を求めたのではなかったか。だが、ここで重要なのは、それが超自然的なものを信仰することへの回帰ではないということだ。「なぜ私はこの踊りを踊っているのか」と繰り返し自らに問いかけ、共同体を批評する作業だった。つまり、演劇が儀礼(呪術)から離脱したものであることに踏みとどまりながら、演劇は「儀礼であり儀礼ではない」という二重性を意識し続けていた。アルトーの場合は、西欧的なクラシカルな演劇を常に敵対視し、ロジカルな言語的演劇と呪術的な演劇とを両睨みにしながら、演劇は「運命に挑む戦争だったのだ」(「運命に抗する人間」)と言い放つ。また、寺山のさきほどの文章の全体は次のようである。「劇は工事であり、演技は労働である。しかし劇はまた呪術であり、俳優は霊媒でもあることを忘れてはならない」。儀礼と演劇、運命と抵抗、ロジックと呪術……。彼らは演劇と儀礼(呪術)との関係について反省を促したのだ。演劇は共同体に関わるものであるという意味において儀礼である。だが、その共同体への批評であるという意味において、儀礼ではない。現代演劇は、つねにその二重性のなかにあると考えられる。

以上のような、演劇と儀礼との関係について考えさせられる事件があった。2014年の日本演劇界を騒がせたアヴィニョン演劇祭参加作品であるSPACの『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』。今年度のアヴィニョン演劇祭に関しては、フランスの舞台芸術にかかわるフリーランスの労働団体であるアンテルミッタンによるストライキによって、演劇祭のいくつかの公演が上演中止になるのではと伝えられていた。SPACの『マハーバーラタ』は、七月十二日土曜日の公演がストライキによって中止となり、代わりに法王庁前広場で抜粋版の無料パフォーマンスが行われた。そのパフォーマンスの前に読み上げられた演出家・宮城聰のステートメントは、演劇と儀礼との関係に直截に踏み込んだものである。私はアヴィニョンに足を運んでいたわけではない。だが、そのステートメントはすぐにSPACのウェブに掲載されたため、そこで読むことができた。宮城のステートメントを目にしたとき、私は同じ演劇の創り手として重大な危険性を感じた。この文章は、その「危険性」の正体を明らかにしようと書き綴ったものである。

宮城聡のステートメントにおいて、問題の部分を引用したい。

私たちは、演劇の上演が、単に観客に向けて行われる行為にとどまるものではなく、人間をとりまく自然界、人間を生かしてくれている宇宙に対して、感謝と慰撫を表現するものだと考えています。従って、上演を行うという約束は、観客に対して結んだ約束にとどまらず、「天」に対しての約束です。つまり演劇の上演は、収穫祭と同種のものであり、たやすくキャンセルできるものではないというのが私たちの感覚です。 (SPACのウェブ「『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』7月12日(土)の公演中止に関して」より引用、http://spac.or.jp/news/?p=10283

この宮城の発言は、特に「『天』に対しての約束」という言葉は、演劇の原初的な衝動について、そして、その宇宙的な祭事性について述べたものであり、極めて正当な考え方のひとつであるといってよいのだろうか。いや、違う。宮城聰の発言には演劇と儀礼をめぐる「二重性」が欠落している。このステートメントでは、演劇は儀礼そのものであり、宗教的な行事であるということになる。もう少し正確に書こう。たしかに宮城も「単に観客に向けて行われる行為にとどまるものではなく」また「観客に対して結んだ約束にとどまらず」という言い方をしている。この「観客」という言葉に演劇と儀礼との「二重性」が意図されていると読むことが可能である、という主張もあるかもしれない。だが、これは「二重性」ではない。ハリソンは儀礼から脱却した人々を「観客」と呼び、儀礼の衰退化と脱呪術化が「観客」の誕生を促したと捉えている。ハリソンがいう「観客」という言葉遣いには儀礼と演劇との緊張関係がある。だが、宮城のステートメントには、そのような含意はまったく読み取れない。儀礼と演劇に緊張関係がなければ、「観客」という言葉は単に儀礼の集団性を指すものと等しくなってしまう。もう一度繰り返す。この宮城のステートメントは、演劇は儀礼そのものであり、宗教的な行事であるという表明に他ならない。

演劇批評家である高橋宏幸が、『テアトロ』(2014年11月号)においてこの宮城のステートメントを取り上げている。ルストム・バルーチャによるピーター・ブルック演出『マハーバーラタ』への批判(『舞台芸術03号』)を前提にしながら、宮城の作品をオリエンタリズムの観点から批判する高橋は、オリエンタリズムを売りにした宮城の態度が「如実に示された」例としてステートメントを引用する。そして宮城のステートメントに対して、「現在の日本の演劇の状況からしてもまったく距離感のあることだろう」と述べ、「少なくとも、SPACは毎年、新嘗祭を催して、その際に演劇作品を上演しているのだろうか」と皮肉交じりに批判している。宮城のステートメントに結果的に賛同するにしても批判するにしても、多くの人がこのステートメントを字義通り受け取ることに「距離感」があるのではないか。ⅱ

ではなぜこのような「距離感」のあるステートメントを宮城は発表したのだろうか。理由のひとつとして、このステートメントが発表された状況を考慮に入れなければならないだろう。つまり、アンテルミッタンはフランス政府による失業保険制度の変更に反対してストライキを決行していた。そのときに宮城は、上演そのものを取りやめないことを「敬意をもって認めてもらえるにはどうするべきか」を考えたと述べている。 ⅲいったいどのように上演の正当性を確保するか。それが宮城にとっての問題であった。ステートメントの前半を引用したい。

私たちは、演劇の普遍的な価値を世界の人々とともに確認できる場所がアヴィニョン演劇祭だと考えています。そしてその確認は上演するという行為によって実現すると考えています。私たちはその目的のために日本からアヴィニョンにやってきました。
同時に私たちは、演劇をおこなううえでもっとも重要な基礎は、多様性の尊重であり、自分とは異なる価値観を尊重することだと考えています。
フランスの劇場で働く人々が、演劇創造を守るために、ストライキという手段を選んだことは、私たちの価値観からは遠いものですが、それは固有の歴史に育まれた固有の価値観に基づく判断として、尊重したいと思います。


この文章に続いて、先に引用した「演劇を上演するということは……『天』に対しての約束なのです」の一節が続くこととなる。ここで宮城が強調しているのは、「多様性の尊重」「異なる価値観の尊重」という自身の多文化主義的態度である。このような前提を確認した後、宮城は「私たち」の演劇は「天」との約束であるという。つまり、このステートメントを通して、「われわれにとって上演とは、宗教的儀式なのだ」という価値観を態度表明することが宮城の戦略なのである。アンテルミッタンもこれには反対しにくい。たとえば教義に基づき労働中に礼拝を行う宗教信仰者たちを尊重するのと同じように、アンテルミッタンも宮城らの宗教的儀礼を尊重するだろう。そうして法王庁前での野外パフォーマンスが実施される。戦略は成功した。アヴィニョン演劇祭のフェスティヴァル・ディレクターのオリヴィエ・ピィは、(日本人の俳優たちにとって!)「演じることは神聖な行為」だと発表し、『マハーバーラタ』に関わっていたアンテルミッタンのスタッフ全員が最終的には協力した。だが、そのような宗教性の態度表明による戦略によって本当に「演劇の普遍的な価値の確認」ができるのだろうか。それは、『マハーバーラタ』上演のために、宗教性を盾にとり、さらに言えば、宗教性を騙る、非常に罪深い行動になるのではないだろうか。

以下、問題を掘り下げるために、二つの場合を仮定して検討してみよう。一つ目は、宮城が演劇の宗教儀礼としての側面を真剣に信じている場合、二つ目は、宮城のステートメントが自らの演劇の上演のための方便である場合である。
まずは一つ目である。宮城が演劇の宗教的儀礼としての側面を真剣に信じているのだとすれば、その内実が問われる。彼らが約束をし、「感謝と慰撫」を表現する対象である「天」とはなにか、ということである。これも高橋が指摘するように(あるいは指摘するまでもなく)、「収穫祭と同種」と書かれるとき、宮中行事である新嘗祭を想起するのは必然的だろう。宮城らは、新嘗祭と同じような演劇を行っているのだろうか。そうであるなら、すでにそれは演劇ではなく、宗教的儀礼そのものである。また、宮城は自らが「天」という言葉を出したことに対しての説明として、『悲劇喜劇』(2014年11月号)のインタビューのなかで次のようにも述べている。「芝居を自分たちのためだけにやるのは、あまりにも虚しく、目の前にいる人たちのためだけに行われるのであれば、一生をかける営みとしてどうにも虚しい。やっぱり芝居は巨大なものにいつかは奉納するという感覚でないと、僕はやり続けられない」。この発言からすると、宮城にとって「天」という言葉は、自らの不安を解消する手立てでもあるかのようだ。宗教・歴史研究学者の磯前順一は、現代日本社会の特徴として、自分の直面している不安から逃げ出したいために、「全体主義的なものへと自分を溶かし込むことで、複数性の声の響きあう緊張性の高い空間を放棄する」動向に歯止めがかからなくなっていると指摘し、宗教者だけではなく、宗教学者、芸術家たちの言動に注意を呼び掛けている(「沈黙の眼差しの前で」『宗教と公共空間』)。こうした「天」にすがって現実を否認するような宮城の態度と、現実へ積極的に介入しようとして演劇における呪術(儀礼)の重要性を主張したアルトーや寺山との違いは明白だろうし、アルトーが晩年に『神の裁きと訣別するために』というテキストを書いたことを思い起こせば、その差異は決定的だと言わざるを得ない。

儀礼を論じる際に、権力の問題は避けては通れない。儀礼は一時的に社会集団に混乱をもたらすものであるが、最終的にはなにかしらの構造の安定をもたらすものであるからだ。儀礼が行われる前と同じ構造か、すこしずらされた構造か、それはさておき、その「安定」のためには、社会集団の均一性を保つことが必要とされ、そこには排除が、そしてそれを司る権力が存在するのである。だからこそ儀礼と演劇との「二重性」について述べ、集団的アイデンティティに必然的に伴う暴力性に視線を向けているわけだが、日本の場合に警戒が必要なのはその「安定」をもたらす構造として、そこに天皇制が横滑りしてくるという事態である。近代的主体であることに付きまとう不安や淋しさから逃れるために、安易に構造・権力に寄り添ってしまうことに警戒しなくてはならないだろう。儀礼と演劇との間にある緊張関係が放棄されたとき、演劇は、パフォーマンスの全体感に自らを投げ出し、惚けた・呆けた顔をした演者と観客がいるばかりのセレモニーとなる。

次に二つ目。ステートメントが自らの上演を確保するための方便だとするならば、自らの演劇を上演するという目的のために宗教性を騙り利用したことになる。ステートメントを聞いた観客たちは『マハーバーラタ』という芝居を宗教的儀礼として目撃することになる。そして、その劇評に飛び交うのは「美しさ」や「崇高な時間」というようなイメージとなる。はたしてこのような欺瞞が宮城の言う「普遍的価値」の確認なのだろうか。長谷部浩は「嫌な言い方ですが、ものすごく計算された闘い方をしたと思う」と述べるが、果たしてなにとの「闘い」だったのか、そこに「闘い」はあったのだろうか。
違う角度から考えてみたい。宮城はクロード・レジやオリヴィエ・ピィに対して、「演劇は至高なものと人間が触れ合うための一つの儀式で奉納と考えていると確信が持てる人たち」と述べている。ではたとえば、彼らふたりがそのようなステートメントをしてストライキに立ち向かうということがありうるだろうか、あるいはそれをアンテルミッタンは受け入れるだろうか。おそらくどちらも否だろう。「何に対しての儀礼なのか」「『天』とはなにか」など、様々な疑問が提出され、交渉は紛糾したに違いない。では、なぜ宮城のステートメントは許されたのか。そこでは、アヴィニョン演劇祭・SPAC双方ともの、内面化されているオリエンタリズムが作動したとしか考えようがない。宮城が言う「天」や「収穫祭」という言葉の内実は問われず、その日本的なるものやアジア的なるものの宗教性が許容される。「フランスの劇場で働く人々が、演劇創造を守るために、ストライキという手段を選んだことは、私たちの価値観からは遠いもの」であるとためらいもなく述べる宮城の姿勢に驚くばかりだが、ⅳその「遠い」価値観が、結局のところ「遠い」ものとされたままであり、つまり、宮城のステートメントも、アンテルミッタンのストライキという戦略も、双方ともに何の対話も交流もなく「遠い」まま、温存される。

問題を拡張しておきたい。
これは儀礼と演劇という問題にとどまらず、近年活発に議論される「宗教と公共」という問題に重なる。3・11後における宗教団体の積極的な社会貢献、最近騒がれるイスラーム国の台頭など、社会的な事象と宗教的要因とが、現在複雑に絡まりあっている。このような事態は、じつは理念的には近代的な世俗社会という考え方には馴染みのないことである。つまり、世俗/宗教を二分法的に分け、社会・政治の領域を、宗教の力学ではなく、人知的で理知的な力学によって考えるのが世俗主義であるが、そのような近代的な価値体系だけでは現在のわれわれの社会は立ち行かなくなっているのである。この状況を「ポスト世俗社会」と名付けたのはドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスである。「宗教」との新たな付き合い方を模索しているハーバーマスは、いまわたしたちが置かれている時代を、社会・政治・宗教との関係を探る「学習期」だと呼んでいる。
近年のハーバーマスの提言は、公共空間における宗教性を認めていくべきで、そのときには「適切な理性」の使用が求められるというものであるが、このようなハーバーマスの態度も、結局のところ世俗主義的であるとの批判もある。それこそが、「学習期」における議論の難しさをあらわしている。社会哲学・宗教社会学者の藤本龍児は、世俗主義の見直し、いいかえれば「ポスト世俗主義」の考え方には二つの方針があると整理している(「二つの世俗主義 公共宗教論の更新」『宗教と公共空間』)。 ⅴ一つ目は世俗主義を前提にした上でどのように公共領域に宗教を参画させるかという問題設定である。ハーバーマスはこちらに入る。二つ目は近代の市民社会という前提自体を見直し、世俗主義という考え方自体を反省的に捉える問題設定である。二つ目の場合、「ある地点まで立ち戻ることが必要になってくるのではないか」と藤本が述べるように、その方法は近代化論や近代性を捉えなおすことである。
だが、どちらの立場にしても(「立ち戻る」にしても)、「学習期」だからといって、現在までに続くさまざまな議論を踏まえずに一から、というわけではない。そこには当然ながら前提がある。たとえば、マックス・ウェーバーによる近代社会論を確認しておこう。マックス・ウェーバーは『職業としての学問』のなかで、近代的学問は「脱呪術化」「魔術からの解放」であるのだから、「真なる存在」への道は失われている、と述べた。学問に「生の意味」を求めることなどできない。「生の意味」を求める者は、キリスト教へと戻り、学問をあきらめるべきだと。これは、ドイツにおける第一次世界大戦末期の講演記録であり、敗戦の可能性が濃厚ななか、ドイツの若者たちが、頼るべき価値や存在を求め始めたことに危機感を覚え、学問の意味を、そして近代の意味をウェーバーが訴えたものである。「『われわれはいったいなにをするべきか、またいかにわれわれは生きるべきか』という問い……に答えるものはだれかとたずねたならば、……それはただ予言者か救世主だけである」。このウェーバーの態度は、「近代」という時代のひとつの「宿命」である。

「ポスト世俗主義」という考え方は、「近代」という理念へのひとつの捉えなおしである。だが、その議論はたとえば以上のようなウェーバーの危機意識を抜きに語られてはならない。捉えなおしや反省とは、立ち戻り、そこから歴史を検討することを求めるのであって、時計の針を戻すことではない。近代はわれわれにさまざまな恩恵を与えてくれた。しかし、いまその近代は窒息しかかっている。我々は現在、近代的価値観をどのように継続するのか、あるいはいかにオルタナティヴを志向するのかを「学習」しているのだ。
私たちはいま演劇と儀礼という問題を考えることで、「近代とは何か」をもう一度吟味しなければならないのである。それは「ポスト世俗主義」という問題設定が、世俗主義は限界なのだから近代を諦めようということではないように、演劇が儀礼へと戻ってゆくことではない。演劇を「呪術」へと先祖返りさせる、あるいは新たに「再呪術化」することではない。宮城の発言も、SPAC『マハーバーラタ』をめぐるいくつかの批評も、演劇が儀礼(呪術)になってしまうことへの警戒が薄いように思われてならない。われわれは儀礼(呪術)から解放されるために多大な時間と犠牲を払ってきた。にもかかわらず、気を抜けば、あっという間に演劇は儀礼(呪術)に戻ってしまう。その警戒心の欠如が、私が宮城聡のステートメントを目にしたときに感じた「危機感」の正体に他ならない。

演劇は、本来的に儀礼・呪術と芸術との緊張関係のただなかに存在する芸能であり、社会集団における価値体系(それによる構造的運命)を克明に分析する装置である。「なぜ私はこの踊りを踊っているのか」。演劇の誕生を決定づけるこのつぶやきは、踊りという儀礼を行う集団を分析するための批評的つぶやきである。そのつぶやきが、自己アイデンティティの不安としてつぶやかれ、そして、その不安を解消するために全体主義的なものが呼び出されたとき、演劇は、集団に必然的に伴う権力構造を正当化し、さらには助長する暴力装置となる。これは常に演劇につきまとう危険性なのだ。わたしは演劇の力を信じている。だからこそ演劇を恐れている。


川口典成プロフィール/
演出家。ピーチャム・カンパニー代表。
1984年、広島県生まれ。東京大学思想文化学科宗教学宗教史学専修課程卒業。同大学院宗教学宗教史学修士課程修了。2009年にピーチャム・カンパニーを旗揚げ。



ⅰ)鴻英良「ストラヴィンスキー作曲『春の祭典』――春を葬る祭り」、F/T14『春の祭典』(演出・振付=白神ももこ、美術=毛利悠子、音楽=宮内康乃)のパンフレットより。
http://www.festival-tokyo.jp/14/wp-content/uploads/2014/08/201411_FT_The-Rite-of-Spring_fin.pdfこのピナ・バウシュの発言は『月刊イメージフォーラム』(1986年12月号)に掲載された鴻英良「ピナ・バウシュとヴッパタール舞踏団 イメージの演劇」に基づくと思われるが、そこではピナの発言は「『春の祭典』で重要なのは、ともあれこれが、儀礼についての舞踏だということです」と書かれている。
ⅱ)『ワンダーランド』に掲載された片山幹生による「SPAC『マハーバーラタ』アヴィニョン演劇祭公演」http://www.wonderlands.jp/archives/26048/「9.「詩的で政治的なフェスティヴァル」の実現:教皇庁前広場での無料特別公演の反響」のなかで、片山はこう書いている。「『演じることは神聖な行為』という言葉をフランスの新聞各紙は伝えた。労働争議によるストライキという緊迫した局面で、一緒に舞台を作っていくアンテルミタンたちに配慮した上で、自主的な公演を行うことを正当化する苦肉の策だ。しかし筆者はこの報道記事を読んだときにいささか不安を覚えた。「演じることは神聖な行為」という素朴で場違いに思える説明を、フランス人はどう受け取るだろうか。スト破りとみなされて現場のスタッフの信頼を失うことにならないだろうか。あるいはこうした形而上学的な理由をつけて公演を行うことで、神秘的で霊的な日本という通俗的な東洋趣味の次元でSPACの公演が捉えられてしまう危険性があるのではないか」。片山は最終的にはこのステートメントを評価しているが、最初に違和感あるいは距離感を感じたことは確かである。
ⅲ)このあたりの事情については『悲劇喜劇』(2014年11月号)の「『マハ―バーラタ~ナラ王の冒険~』アヴィニョン公演を終えて」に、演劇評論家・長谷部浩による宮城聡へのインタビューとして詳しく述べられている。
ⅳ)宮城は、アンテルミッタンが選んだストライキという方法が、戦略として有効でないと考えている可能性も十分ある。その場合には、それがどのように有効でないのか、その意見こそ聞いてみたい。今回の事例において、ストライキが有効であるのか、私には判断が難しいことも書き添えておく。
ⅴ)「一つは、世俗化論と政教分離を見直し、公的領域に宗教を参画させる、という方法である。もう一つは、公的領域の基盤とされる世俗的理性やリベラルな政治文化そのものまでを宗教との関係で問い直す、という方針である」(藤本龍児「二つの世俗主義 公共宗教論の更新」『宗教と公共空間』)


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