「演劇の現場と評論・批評——シアターアーツ『マハーバーラタ』ステートメント批判不掲載問題をめぐって——」

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  • 『シアターアーツ』SPAC批判不掲載問題をめぐる座談会
  • 川口典成の原稿「儀礼と演劇、近代を再考する手つきについて―SPAC『マハーバーラタ』ステートメント批判」が、Webマガジン「シアターアーツ」に掲載するということに一度はなりながら、その後一転して掲載不可ということになった経緯について先日公開したが、その経緯をめぐって『シアターアーツ』歴代編集長を招いての座談会を開催しました。以下は、その座談会の記録です。
出席者(敬称略):
藤原央登(演劇批評家、現・シアターアーツ編集長)
鴻英良(演劇批評家、第一次シアターアーツ編集代表)
西堂行人(演劇批評家、第二次第一期・第三次第一期シアターアーツ編集代表)
高橋宏幸(演劇批評家、第二次第三期シアターアーツ編集代表)
清水信臣(演出家、劇団解体社)
川口典成(演出家、ピーチャム・カンパニー)
※他に過去の編集代表として、新野守広氏および柾木博行氏に出席をお願いしていたが、新野氏は「現在、国際演劇評論家協会の会長であり、シアターアーツはその機関誌ではないため、会長として発言は控えたい」とのことで、柾木氏はスケジュール上の都合および「編集部としては既に判断を示している」とのことで、出席いただけませんでした。
(2015/1/27、於ルノワール市ヶ谷店会議室、記録・構成:森澤友一朗)

原稿掲載不許可の経緯

川口 本日はお集りいただきまして、ありがとうございます。ピーチャム・カンパニーの川口です。「演劇の現場と評論・批評——シアターアーツ『マハーバーラタ』ステートメント批判不掲載問題をめぐって——」という議題で進めさせていただければと思います。
それでは簡単に経緯についてご紹介したいと思うのですが、まず僕の方から11月の初頭くらいに藤原さんに、アヴィニョンで宮城さんが発表したステートメントについての批判をシアターアーツに掲載させてもらえないかということで連絡させていただき、その後、草稿をお送りし、編集部で会議にかけていただきました。その後、編集部からコメントについて修正をした上で、藤原さんに提出したところ、基本的にこのまま載せますという回答をいただいたのですが、その後編集部で方針が変わり、編集部内で意見の齟齬があったということで、12月末に不掲載との連絡をいただきました。それを受けて、僕からは強く抗議しましたが、しかし結局、編集部の方針として不可ということなので、この経緯も含めて公開しますということで連絡しました。その後、僕の原稿は、先週の1月21日にワンダーランドさんの方に一部修正したかたちで掲載され、同時にピーチャム・カンパニーのウェブに不掲載の経緯およびシアターアーツに送った最終原稿を掲載しました。
以上の経緯を踏まえまして、ここでお話したいことは大きく分けると二つありまして、一点目は僕の原稿に対してのシアターアーツ編集部の対応・手続きについて、二点目は僕の書いた原稿自体についてということになります。
まず、一点目の手続きにまつわる問題から入っていきたいと思いますので、まずピーチャムのウェブサイトに掲載した経緯についての文章の最初の部分を読み上げます。(引用略、本ウェブページ記載「シアターアーツ原稿不掲載の経緯について」(以下「経緯」)を参照。)
まず、「宮城氏批判は掲載しない」という点については藤原さんとしてもご異論もあると思いますので、その前段までおよびその後に記載の手続きの詳細に限って藤原さんの方で何か訂正なり意見がありましたら、お伺いしたいと思うのですが。

藤原 そうですね。川口さんが説明されたのは大筋であっていると思うのですが、一点、今年の1月のあたまに一度、編集会議をしたんですね。昨年12月24日に掲載不可の連絡をお送りした後にずっと考えていたんですよ、あれでよかったのだろうかと。僕の意見に対して反対意見が多く、そこで一応合議制ということで反対意見を呑んだわけですが、そのことについて、すごく違和感を個人的には抱いていました。僕はずっと当初から載せたいと思っていたわけですから。それをもう一回ゼロベースで議論しようということで、今年の1月のあたまに会議をしました。その結果が新たにコメントをつけてお送りしたもの(編集注:「経緯」で触れてある「先方からきた原稿への新たなコメント」に該当)です。

掲載不可から一転した編集部の判断

藤原 掲載をするしないの間で、僕ひとりだけが掲載をしたいという状況のなかでなんとか説得して、折り合いをつけて、掲載をするという結論を出しているんですね。そこが一応の編集部としての最終的な答えです。
で、それを川口さんにお伝えしようとしていたところで、ワンダーランドの北嶋さんからうちで掲載することになりましたという連絡を受けたので、こちらでできるのはもう川口さんに選んでいただくしかないなと。で、結果的に川口さんからワンダーランドに掲載することにしているから、という連絡をもらいました。

鴻 はじめは掲載しないということが決まって、で、しばらくして掲載するということに変わったわけね?

藤原 そうですね。僕のわがままでもう一度蒸し返したんです。

川口 ひとつ疑問があるのですが、ワンダーランドに掲載することになって、ワンダーランドさんからシアターアーツさんに連絡があると聞いていたんですね。それで、ワンダーランドの代表である北嶋さんからシアターアーツさんに通知が送られ、またそれとほぼ同時に座談会をしたいという連絡を僕が藤原さんにお送りした。その後になって、藤原さんから一転して掲載したいという連絡が来たんですね。
そうすると、その判断が座談会をやるということとワンダーランドに載るということに対する防御策というか、避難策のように感じてしまうんですが。

藤原 それは全く違います。知らなかったです。

高橋 ただ、この座談会を川口さんが催すので出席を要請するメールは届いていたのですか? あと、本日お配りされた資料に印刷されている、川口さんからシアターアーツ編集部の藤原さんへのメールには「これまでの経緯、掲載不許可の理由を含めてやりとりを公開」するとありますが、それはどう考えていらっしゃったんですか。

藤原 オープンにするということは聞いていました。ワンダーランドに掲載することが決まっていたというのは全然知らなかったです。ほぼ同時だったと思いますが。

鴻 そのとき前提条件として、最初は掲載しないということに決めたわけじゃないですか。その理由を明確にしてもらった上で、その後、もう一回会議を開いて掲載しないという判断を覆したその理由を喋ってもらうといいんじゃないですか。

編集部内での掲載をめぐる意見交換

清水 その前にちょっと、ひとつだけ。8人の編集部のうち、ひとりだけが賛成? ということは、そのおひとりっていうのは、藤原さん?

藤原 はい。

清水 8人のうち7人が反対? それを覆したわけですか?

藤原 覆したというか、編集長の僕個人としては当初の決定に反対だったので、載せたいのに掲載不可の連絡をするというのは、すごいモヤモヤしたところがあって……

高橋 残りの7人の各氏が、この原稿の掲載に一律に反対したと。

川口 7人と言うのは副編集長の柾木博行氏、および編集委員の小田幸子氏、坂口勝彦氏、關智子氏、塚本知佳氏、野田学氏、吉田季実子氏ですね。

藤原 賛成はほぼ僕1人でしたが、最終的に、コメント(編集注:「経緯」記載の「先方からきた原稿への新たなコメント」に該当)の点が直されたら掲載、という合意に達した。大勢が反対であっても、編集長が最終的に載せたいと言えば支持してもらえるかと思っていたんですが、そうではなかったということです。

掲載不許可の具体的な理由

高橋 他の編集部のみなさんが、譲れない理由としてあったのは何なのでしょうか?

西堂 さっき読み上げた、宮城批判を嫌ったというのと、ステートメント批判が局所的であるっていうことですか。

高橋 それだと、批判しているから掲載しない方がいいということですか?

鴻 え、それが理由なの? それが理由だとすると非常に興味深いね(笑)。

藤原 いや、それが理由ではないですね。

高橋 では、理由は何なんでしょう?

編集部の掲載不可をめぐる手続きについて

清水 その前に、1対7のことにこだわるんですけど(笑)、それほとんど「少数派」というよりも全くの孤立状態ですよね?それが合意に至るプロセスというのは大変なことだと思うんですけれど。

藤原 はい、たぶん全部で9時間くらいこの原稿について話をしているんですよ。

川口 一応言っておくと、藤原さんが掲載のために動いていたということと、その結果は全く別の問題です。

藤原 一回掲載不可という連絡をして、対応が二転三転したということは本当に申し訳なく思っています。その点につきましては編集長として対応が良くなかった。謝罪致します。

川口 はい。まずひとつはっきりさせておきたいのは、一番最初に掲載することに決まったときは、書き直しの上で掲載するというのが編集部の判断だった。その会議に出席していなかった編集部の方もいたので、その判断を藤原さんがメーリングリストに送った。そこでは特に反対意見はなかったわけです。その後、私が修正した原稿を、藤原さんがメーリングリストに送ると、「やっぱり反対だった」という意見が出てきたということですよね?

藤原 そうですね。

川口 そうですか。それは完全に、編集部の手続きミスですよね。なぜそれで僕が掲載不可ということにならないといけないのかと、全く理解できない。編集部のコメントを十全に反映させているんですよ。

掲載不許可の具体的な理由(続き)

西堂 修正しきれてなかったという判断なんじゃない? 結局。

川口 でも、「修正しきれていない」という説明は、1月の会議の結果として僕に伝えられたものです。掲載拒否の時点では、「お送りしたコメントを真摯に受け取っていただき、十分に反映された原稿だと思います」とのメールを藤原さんからいただいています。

西堂 結局、宮城さんへの個人批判色が残っているということでしょう。

高橋 簡単に言うと宮城さんのステートメントへの批判の色を薄めてほしいというのが編集部の意向だったと。けれど、それがまだ強固に残っているということですか。

西堂 そうそう。だから、書き手は頑固に残したんだっていう、そこの対立ですね。

高橋 少なくとも論旨のミスをなくすために、もしくはクリアーに打ち出すために、こういうのをもっと足してくれ、修正してくれといったことは編集としてやるべきでしょうが、批判の色を薄めろと言うのは、どうなのでしょうか。

鴻 もし編集部が批判の色を薄めろといったような言い方をしてたらですよ、これは問題だよ。

高橋 だからこそ、なぜ方針がこうも変わったりしたのか、もしくは反対の人はなぜ反対したのか、藤原さんはきちんと説明した方がいいと思うんですよ。

鴻 うん。さっき川口さんの読み上げた、「やりとりのなかで感じたのは、「シアターアーツ」はSPACの演出家である宮城氏批判は掲載しない、あるいは、宮城氏の機嫌は損ねたくない、という強いメッセージです」というのは掲載拒否の理由についての川口さんの推測ですね。本当にそうなんですかという疑問も感じます。編集部としてはそんなことありませんよと言うことだって可能だし。でも、もしそう言うとしたら、なぜならこうこう……、という理由を言えばいい。そうしたら、問題の所在が明確になる。

藤原 宮城さんへの批判を土台にして近代について考える、そういう趣旨に原稿はなっていると僕個人は思っています。初稿にコメントをつけて戻したときの一番の僕の要望は、修正後の原稿で問題を拡張している部分がありますが、そういった部分を十分に膨らませてもらえると意義が出るということでした。と同時に、やっぱり近代への拡張という部分を十分広げてはいるんだけど、その意義を相殺するかたちで宮城さんへの批判というのも根強く残っているのではないかという意見もあって。

川口 よくわからないのですが、宮城さんのステートメント批判の議論を拡張するのですから、宮城さんへの批判の色が薄まるということは不可能ですよ。

藤原 そうですよね。

編集部のコメント、全体主義というワード

川口 さらにですね、たとえば、一転して掲載するというときにシアターアーツ編集部からいただいた修正依頼のコメントですが、論考の最後にあるまとめの部分、「(演劇に対する批評的)つぶやきが、自己アイデンティティの不安としてつぶやかれ、そして、その不安を解消するために全体主義的なものが呼び出されたとき」という箇所に対して、「宮城氏が全体主義的なものへ傾注しているとの誤解を与える。そうした予断を排すためにも一般的な概念として展開されてきた論に沿ったものに修正をお願いします」とコメントがつけられてある。「全体主義的なものに傾注していくかもしれない危険性がある」というのが僕の議論であって、その危険こそ、集団を扱う演劇人が気をつけなければいけないことではないかというのが僕の論旨です。ですので、ここで「全体主義的なものへ傾注しているとの誤解を与える」とありますが、それは誤解ではなく、私の論旨そのものです。で、このような問題設定に反対意見があるのならば、論理的な理由が欲しい。
ひとつ聞きたいのですが、「宮城氏が全体主義的なものに傾注していると誤解を」受けると、編集部はなにかまずいことでもあるのですか?

藤原 それは、「全体主義」というと、言葉としてはインパクトもありますので、宮城さんが「全体主義」ということまでは、このステートメントだけを読むと言えないだろうという意見もあって。掲載するにあたっては修正してほしいということになりました。

清水 あ、編集会議での妥協案として?

藤原 そうですね、そういう誤解を与える部分は変更してもらうという、そういう点を三箇所コメントとして挙げました。

高橋 それはやはり、宮城さんのステートメントへの批判は薄める、っていうことに繋がるのではないですか?

藤原 でも、編集部の人間はそこが問題ではない、批判しているからダメということではないと。全体の論旨が薄れてしまうから、そういうインパクトの強い文言は避けていただこうと。

清水 それは藤原さんの意見じゃなくて、編集部のなかの反対派からここをこう変えればという意見が出て?

藤原 その点が編集部内で摺り合わせることができたラインでした。

編集部からの最初の掲載不可の理由

川口 そもそも、編集部の方々がきちんと読まれた上で僕の文章を批判しているのかということに疑問があります。一転して掲載したいとのメールに対して、僕が返信したメールから引用します(以下、「経緯」後半部分にも引用の内容)。

最終的な掲載拒否の第二の理由にも応答しておきます。「しかしながら、それは宮城氏自身が演劇上演を新嘗祭と同種のものと捉えているということにはならない。本論考は、その点で「もし宮城が~としているならば」という仮定を設けてそれを批判していることになる。」とのことですが、わたしの原稿をきちんと読まれたのでしょうか。
「この宮城のステートメントは、演劇は儀礼そのものであり、宗教的な行事であるという表明に他ならない」というのが、私の宮城ステートメントに関する判断であることは明示しています。「新嘗祭」と全く同じだとはいっておらず、ただ、儀礼そのものである、と判断しているのです。「とらえているということにはならない」というのは別のかたの主張であって、そういう主張があってももちろんよいのですが、であるならば、わたしの論理展開のどこが問題なのか、はっきりいっていただきたい。
また、「仮定」を設けているのは、宮城氏が「演劇は儀礼だ」という主張をした真意についてです。二つの場合が考えられるから「仮定」したのであって、ステートメントへの評価を「仮定」のうえに組み立てているわけでない。


最終的な掲載拒否の理由が、論理的じゃないと思うのです。宮城さんの演劇が新嘗祭という言葉と並べられることがイヤだ、と、そういう強いメッセージがあるようにしか僕には思えない。

二転三転した編集部の判断

藤原 12月28日に送ったこの掲載不可の理由について、送った僕もモヤモヤとしていたから、この掲載不可の理由をひっくり返すために、1月あたまにもう一度会議をしたっていうことなので、これが編集部の最終的な掲載不可の理由ではないと僕は認識しているんですね。

鴻 でも「謹んで編集部の結論をご報告」と書いてある。これ受取れば、「ああ、結論はこういうことか」と、なるよね。もしそれをひっくり返すんなら、まず謝罪をする必要があるよね。
それをひっくり返したこと自体が、むしろ問題だよね。

藤原 二転三転したことは本当に申し訳ないです。

鴻 そこまで二転三転しているのであれば、自分たちの批評家としての軸がどういうふうに担保されてあるのかということが問われるよね。むしろ非常に大きな問題だよ。編集部の批評家としての資格が問われる。

川口 その再度掲載をというときに書き直してほしいと言われた箇所も、やはり宮城さんの個人批判に思われてしまうだろうと編集部が考える、ほんとに細かいところを直せというコメントで、なぜここを直さなければいけないのか全くわからないんですね。

高橋 批判のトーンが薄まってしまうと感じたわけですよね、川口さんは。それに対して、藤原さんはどういう意見を持っていらっしゃるんですか?

藤原 さっきも言いましたが、誤解なく川口さんの意見が読者に伝わるだろうということで。ちょっとしたことなんだけど、やはりそこにひっかかる人間もいたので。

高橋 「誤解」というのは、具体的に誰に対する何の誤解なのでしょうか?

だれへの「誤解」なのか

藤原 全体的に宮城さんを批判しているっていう誤解ですね。

高橋 でも、それは誤解じゃなくて、まさに批評しているところなんじゃないですか?

西堂 個人批判みたいなところに収束することをおそれるっていうことでしょう。

藤原 一般的・普遍的な問題として近代のことを考えているんだけど、そこにジャンプしきれずに宮城さんの問題が最後の最後までつきまとってくると、全体的に宮城さんしか批判してないという風に読み取られる懸念がある。

鴻 しかし、宮城聰のステートメントのなかに現れている問題を分析して、それがおかしいと言っている文章なのであって、もちろん論旨が一貫しているかどうかは問われるにせよ、まずは「演劇は儀礼だ」というふうに考えるのはよくないんじゃないかと問いかけているわけですよね。だから、その問いかけが実は甘いんじゃないと思っている人がいたら、その人がこの文章はおかしいじゃないか、なぜならば……と反論をしていくのが批評の言説のあり方であって。
それをこれは個人攻撃だからっていうふうな考え方自体が、もはや批評家失格だと僕は思うね。
近代における宗教を語るために宮城聰を利用しているというわけじゃなくて、近代における宗教の問題なんかを論じることによって、むしろ自分の論理を裏付けていくという作業であるわけで、そういうことを読み解けていないということも問題だし、ここに書かれていることがおかしいと思うんならおかしいと書けばいい、その文章をおれは読みたいよ。

高橋 いまシアターアーツ編集部の人たちは全員が国際演劇評論家連盟に属する人たちであるわけですよね。川口さんの評を掲載しても、それに対して編集部の人が別の意見があるならば反論を書くというのがフェアなのではないですか。自ら書けるのだから対論を掲載するというのはどうでしょうか。

西堂 僕は川口さんにそれを言ったんです。
つまり、この原稿を載せるってことは、これを編集部は支持してますっていうメッセージなんです、基本的には。だから自分たちが肯定しないものは載せられない、ほんとはね。だけども、批判的なものを載せた後に、あえてこれは批判として載せる、だから自分たちはこういう論を出すっていう反論を載せればいい。僕はこれが編集部のやり方として、一番フェアじゃないかなと思う。編集部の中にも、この原稿が一石を投じたことは認めているはずだから。

高橋 少なくとも評として掲載に値するレベルのものを載せないとなると、たとえば現在のシアターアーツ編集部は、世田谷パブリックシアターの作品の批判はしてもいいけれど、SPACの批判はしないということになる。それは、数人の編集部の人たちが、SPACとどういう関係にあるか私は知らないですが、仲がいいからではないかとか疑われてしまう。すると、少なくとも批評の中立性はなくなる。もしくは、いっそのこと間口の狭い劇評webサイトですといって、批判してはいけない作家や劇場の一覧リストを最初から掲げたらいい。

西堂 そういう党派性が見えてしまうのは、まずいよね。あくまで中立でなくては。とくに劇場とか、商業資本とか力のあるところとつながっちゃうのは批評性を規制してしまう。

表現者にとってステートメントとは

清水 私はこれを読んだときすぐ思い出したのですが、85年に舞踏フェスティバルが開催された時、土方巽がステートメントを出しましたよね。その文言には「私の舞踏は、神社仏閣の芸能とは無縁のところから始まったんだ、そう断言してもいい」という言明があるのですが、この言葉にふれて以来、私の舞踏への認識はまったく新たになった。それまでは、舞踏の上演というのは土俗的・土着的な身振りの復権みたいなものであって、それによって共同体を慰撫し支えていくようなそういうものとしてイメージされていたわけです。そのイメージを土方はこのステートメントによって切断してみせた。
何が言いたいかというとステートメントというのはそれによって観客の見方をも根本から変えてしまうような、表現者にとってはきわめて重要な行為だということです。演出家の思想の根本がそこに込められているといっていい。おそらく、宮城さんもこのステートメントによって自分の演劇思想を本気で語ろうとしたのだと思います。ですからそれに対して編集部が「局所的である」とか「それだけを取りだして」というのは、むしろ宮城さんに対して失礼じゃないかと私は思いますね。
このステートメントを真摯に検証するということが重要なのであって、それを演出家の川口さんが今回やった。それに対していま批評家の人たちはどう思っているのか。アヴィニョンの法王庁前広場でも読み上げられたというこの声明文は、真っ先に批評家の人たちが応答し問題化しなければならないようなものではないかと私は思います。

鴻 このステートメントは極めて素晴らしいと、こう思った批評家もたとえばいると思うんだよ。そうしたら、その人は川口さんの書いたものに対して、川口の論考はここがおかしいと書けばいいんであって。そういうふうに応答していくのが批評的対話であってね。

清水 私がよくわからないのは、まさにそういう論争の場を組織していく「批評家」の人たちが集まって作っているのがシアターアーツという雑誌だったわけですよね。それがなぜ?

鴻 別の理由があるんじゃない?

藤原 編集長としての僕の考えは、川口さんのような原稿は積極的に載せていきたいと思っています。

高橋 いや、でも載らなかったわけだから。だから、こうしていま座談会で話をしている(笑)。

藤原 でも編集部の最終的な考えは、掲載するっていうこと……

鴻 それは遅すぎだよ。

藤原 そこは申し訳ないと思います。

川口 ですし、僕は最後の三点(注:再度掲載の連絡の際に来た三点の修正要請)は受け入れられない。

批評の視覚

清水 これはもう編集って作業よりも、一番重要な文言を書き換えろっていう指令――川口さんは検閲って書いてますが――ほとんどそれに近いものだと思いますが。

高橋 川口さんの書いたものへのコメントを読んで困るなと思うのは、たとえば「局所的です」とかって言われてしまうと、実際批評を書いて誰かの作品を批判するときって、どこか一点から書くわけだし、その作品や作家性の全部を批判しようなんて、そんなことは考えてもいない。川口さんも、そのポイントからいかに問題を繋げていくかということをした。だから、ステートメント批判から近代の問題設定へとつながって描いたわけでしょう。
作品や何かを批判的に批評しようとするときに、「この作品のこの部分は……」と書いたりするのはある種の限定です。でも、そのときに、「過去の作品では違った」とか言われたら、それは作品評としては成り立たなくなる。この問題は局所的かもしれないけど、それがどれだけの広がりを持っているのかを暴き出すのが、批評というものの本質のひとつです。それが、このような理由で拒否されると、批評自体が書けない。
ただ、それはアーティストに対して本当の意味で失礼だと思いますよ。作品はどのようにでも批判される以上、批評家が書く批評もどのようにでも批判されてもいい。それは対等な関係です。レポートのような書いても書かなくてもいいようなものは、批評でもなんでもなくて、自己実現の一環でしょう。もしくは、もはや批評なんていらなくて、パブリシティでいいと言うならそれまでですが。

編集部が今後とるべき対応について

鴻 やっぱり経緯説明、編集部側の判断が掲載拒否になったことについてもなぜそうなったのかということを説明して、それが年を越えてそれが掲載ということに決まったという理由を公式見解として載せるというのが普通の対応の仕方という気がするね。

高橋 それで、編集部で誰か納得できない人がいたのであれば、その方が書けばいい。何かあったときは、自ら書くことができるというのがWEBシアターアーツ編集部の特色とされているわけでしょう。

川口 シアターアーツ編集部に要求したいことがあります。それは経緯説明とともに、宮城さんのステートメントおよび僕の原稿に対する論考を出していただきたいということです。僕は、宮城さんのステートメントおよび宮城さんの演劇に対するシアターアーツ編集部の価値評価を強く感じました。ですので、その価値を明らかにしてもらいたい。どういう価値観を持っているのか。どなたが書いてもいいのですけれど、メールでの理由だけでは全くわかりません。

鴻 あと、僕は実際に舞台を観ていないわけだけど、実際に舞台を観た人がステートメントを読んで別の視点から、舞台を観ていると実際の川口が言ったこととは違ったものが見えてくるんですよと、そういったような文章をね。

西堂 すでに別の劇評が掲載されているけど、改めてそういう劇評を載せてもいいんじゃないですか。議論が論争的になるのが望ましい。

鴻 アヴィニョンにいた人間も何人かいるはずだし。

西堂 批評家が創作家に寄り添ったり、美談として括られそうなことを予感して、川口さんは先手を打って批判してるんですね。そういう情勢批判を抜きにして書いたらよかったんじゃないかとは、僕は思うけれどね。

高橋 それを狙うのも批評の一つの戦略だから。時期が過ぎてしまうと、あまり意味をなさなくなってしまうこともあるし。

掲載拒否の理由について(続き)
――天皇性をめぐる議論? SPACへの気遣い?

清水 藤原さんにお聞きしたいのは、先ほどから皆さんおっしゃっているように、どうも理由がもうひとつ明瞭でないという点なんですけどね。
高橋さんが新嘗祭というのを持ち出したように、これが天皇制をめぐる議論になっていくということを恐れているということはないですか?

藤原 僕は恐れていないです。そして編集部にはそれぞれの考え方があります。

清水 そういう議論はされたんですか?

藤原 しましたね。僕は、天皇制が横滑りしてくるという危険性があるということを川口さんがしっかり書いてあるので、そのとおりだなと思いました。

鴻 ネット右翼からの攻撃を恐れてやったんじゃないかというのが、私が読んだときの最初の印象でしたね(笑)。わからないですけど。

高橋 そこまで考えていないでしょう。なんとなく風向きを見たとか、仲良しの関係を壊したくないとかではないですか(笑)。

藤原 決してそういうことではないと思います。

鴻 でも問題化されるのは書いた人間だからね。たとえば、書いた人間に招待状が来なくなるとかね。直接的に批判を書いて、翌月から今まで来ていた招待状が来なくなるというのはよくあることで。それは著者が劇場なり劇団との関係が悪くなるわけで、それを編集部が慮る必要はない。

西堂 でも雑誌だと、編集部が楯になって、著者を守ることはあります。批判された側の抗議に対して、批評家を擁護すること。劇団は集団であり、批評家は個人だから、物量的に分が悪いのが批評の側ですから。あるいは批判の書き方を指導することもあります。感情的に刺激するのでなく、論理を通すよう書き換えてもらうことはある。いずれにせよ、批判を書くときは相当の芸が必要です。

高橋 僕のところにも今まで来ていた招待が来なくなる可能性はある。でも、今回はむしろ編集部の方が守るというよりも、面倒ごとを避けたように映ってしまう。いままで原稿のレベルに関しては保留したままで話をしていましたけれど、原稿のレベル自体も悪くないと僕は思うのですが、その点はいかがでしょうか。僕がこの座談会に来ている理由の一つに、僕の名前が引用されているということとは別に、原稿のレベルとしても掲載して何か問題があるのかと思ったということがある。これを掲載しないとなると、ぼくがなにかの作品を批判的に批評したような原稿も、もはやWEBシアターアーツには掲載されないんだと思った。
少なくとも、これは近代という問題を宮城さんのステートメントと結び付けてそれなりに論を精緻に展開している。これは「批評」と言っていいんじゃないですか? こんなことを言っちゃなんですけど、WEBシアターアーツに掲載されている他の原稿もいくつか読んできましたけれど、遜色ないと思った。そのあたりはどうなんですか?

藤原 遜色ないと思います。

ステートメント批判の是非

西堂 ただもうひとつ言えるのは、舞台批評とセットで書くっていう方がよりいい。たぶん「局所的」っていう言い方をされたのはそこだと思う。舞台をセットで考えたときに、舞台がステートメントを裏切って、それに対する批評性を持ったりする場合が往々にしてある。ステートメントというのはひとつの文脈を作るわけだけど、それをいい意味で裏切る場合がある。宮城さんのステートメントは——―土方巽の場合はそれ自体が文学作品だったかもしれないけれど――言ってみればアヴィニョンの非常事態の場で急遽書いたんでしょ?

清水 いや、私はそういうふうには思わないですね。

川口 たしかにステートメントを裏切るような演劇作品がありうるということは理解しています。しかしその場合であっても、僕が原稿のなかで書いた、宗教性を騙ったんではないか、利用したのではないかということに関しては、全く別の問題だと思うんですね。なぜ宮城さんが「天との約束」と言ったことをオリヴィエ・ピイやアンテルミッタンが許したのか、なぜ他の人々にも受け入れられたのか。それはそれまでの話し合いがあったということとはまた別に、「日本人なるもの」がそこで許容される。それを宮城さんがしたたかに狙ったとしか僕には思えない。

西堂 西洋が東洋に対するある種のコンプレックスを当て込んだわけね。

川口 だと思います。たとえば「シャルリー・エブド」の問題に対して、宮城さんは全く係わりがないとは言えないと思うんですね。宗教性を用いて、フランスの労働団体と交渉したわけですから。そのストのときに、もしイスラム圏の人たちがわれわれの宗教性を否定するのかというかたちでステートメントを出したら、それはいったいどうなっていたんだということになると思うんですよ。今回のステートメントを巡る一連の流れは、フランスの日本の捉え方や、フランスと宗教性との係わりという問題が露わになっている事件だと思います。だからこれは看過しちゃいけないと考える、僕にとっては大きな理由があります。
宮城さんはフランスの状況に対してしたたかに狙いを定め、宗教を商品にしてしまったのではないか、と考えるわけです。

宮城氏のステートメントの真意

清水 いや、川口さんの論考で言えば、二つの仮定で述べられていますけど、私は一つ目を支持しますね。戦略とかいうものではなくて、彼は本当にこれを信じているように思います。たとえば、長谷部さんとの対談での発言を引用されていますが、「芝居を自分たちのためだけにやるのは、あまりにも虚しく、目の前にいる人たちのためだけに行われるのであれば、一生をかける営みとしてどうにも虚しい。やっぱり芝居は巨大なものにいつかは奉納するという感覚でないと、僕はやり続けられない」と非常に素朴に語っているんですけれども、なんかこう国家神道のような思想を感じますね。「天」というのは、これはむしろ天皇のことなんじゃないかとかね。かなり本気になっているような気がしますね。だとしたらこちらも本気で応答しなければいけない。

川口 一点、これは原稿に書かなかったんですけれども、『悲劇喜劇』(2014年11月号)に掲載されている宮城氏へのインタビューで、宮城氏自身がステートメントを引用しているんですけれども、「天との約束」のところを、「外部の世界全体と約束している」と言い換えているんですね。この変更は宮城さんが誰かに言われたのか、自分で気付いたのか、いずれにせよなぜ書き換えたのか、問われてもよいように思います。

鴻 上演というものは、そういう「天」との約束である、それがわれわれ日本人の演劇をやっている人間たちの考え方なんですというのは、事実誤認ですよ。ほかの演劇人に聞いてみればはっきりすると思いますね。だからこれは事実誤認をしているわけだけれど、本人がそう思っているんならば、それは違うんじゃない?と誰かが言ってあげないと。

西堂 批評家は劇現場の言い分を受け入れてばかりいるのでなく、距離をとって批判していくことが必要です。

鴻 そういった、ヨーロッパの人たちにはヨーロッパの人たちの考え方があって、われわれ日本人にはわれわれ日本人の考え方があって、演劇と関わる、と。で、われわれ日本人は演劇をやるときに、それを天との約束としてやっているんだと表明しているわけじゃないですか。ほんとにそうなの? という話なわけだけど、ヨーロッパには日本のこと知らない人たちはいっぱいいるわけで、その人たちは、「ああそうなんですか、じゃあ仕方ないですね」と。で、お互いの多様性を認めましょうとなる。交渉するんではなく、多様性を認めてそれを全面的に受け止めますと。アンテルミッタンの人たちも受け入れてくれました、よかったよかったとなるわけですよ。それって非常に捏造された文化的関係であって、そこが問題だ。

捏造された文化関係とその切断

西堂 そこですね。それが一種の東洋演劇の魔術みたいなところに摺り替えられていく。それは西洋人が一番引っかかりやすいところです。歌舞伎や能など、自分たちにない形式美には、何ら反論できない。受け入れざるをえない。そこからアルトーにしろブレヒトにしろ、東洋演劇に対する過大な妄想を膨らませていくわけです。批評はそこに切断を入れるべきですね。

清水 そこのところで、要するにヨーロッパの演劇がネーション・ビルドのようなものだとして、これに対し、宮城さんは、日本の演劇は「天との約束」のもとで、臣民化されてゆくような演劇であると。いわば「臣民化の原理」のような考えを、上演中止という土壇場で見いだしたのではないか、その根拠として、皇帝とか法王とかよりも上位にあるとされる「天-皇/王」との「約束」が持ち出される

西堂 天皇の赤子としての演劇をやっている? なんかだんだん話が危うい方向に行ってるね(笑)。

清水 そういう議論にどんどんなっていくことを危ぶみ、編集部は自主規制したんじゃないか。

西堂 そこまで読んでないとは思うけど(笑)。でもどんどん誤読していくと、当事者を超えて、面白い議論に発展していくね。

高橋 そこまで読み込んでいたら政治的な判断といえるのでしょうけど。単に批判するのはどうかな、ということではないですか。僕は宮城さんのステートメントについて、『テアトロ』でもはや現代の古典といえるかもしれない、オリエンタリズムという問題を、ルストム・バルーチャなんかを援用しながら批評しました。しかし、誰にだって常にオリエンタリズムという影はつく。ただ、他の国で上演して行く演劇人たちは、それを受け入れつつ、いかに切断も伴っていくかというところで格闘していかざるを得ない。でも、それを逆手にとって、これを出しておけばもう相手は何も言えないというような——―たとえそれが戦略だとしても——―ことを是とするのかどうかは、やはり考えなければいけないと思う。
60年代の寺山的なオリエンタリズムを用いて海外を回るひとたちはまだ多い。そのなかで、少なくとも古典的なオリエンタリズム――先ほどからの「天」とか「天皇」とかいったような言葉が出ていますが――という問題設定とは違ったかたちで作品を作って海外で公演する若手たちも出ている。そうすると、宮城さんの戦略をどのように考えるべきかというのは、これは現代演劇の現状のなかにある問題だと思います。
そのなかにおいて見ると川口さんの批判はクリティカルに響いているのではないかと思いました。藤原さん、そのあたりはどうなのでしょうか?

藤原 はい、響いてます。個人的には。

高橋 個人的な問題は今日の座談会ではもうどこかに置いていただいて、編集長としてはどうなのかを聞く会だと思うのですが。

藤原 同じ作り手である川口さんが宮城さんのステートメントに反応することはすごくまっとうなことだし、作り手として宮城さんが考えていることには全然同意できないぞというモチベーションがあったからこそ、ここまでの文章を書いたと思うんですよ。それは肯定されてしかるべきだと思います。同世代の作家のなかでもこういうことを考える人は少ないとも思いますので。

シアターアーツの編集方針

藤原 そういうこともふまえてシアターアーツだったらふさわしいだろうと思ってもらって、最初にこういったことを書きたいんだけどというオファーがあったと思います。雑誌としてどういうものを載せていくかという方向性は、もう一度編集部のなかでは話し合っていかなければいけない。投稿原稿ということもあって、こういう原稿の話がきてるよという話をしたところで、川口さんの原稿は僕が担当者だと思っていたんだけど、どうもそうではなかった。シアターアーツのウェブサイトに基本的な理念を僕が主体になって書いたものがあります。どういうものを掲載するかということは、それで一応共有していたつもりだったのですが、齟齬が生じてしまった。

高橋 それはいったいどういうものですか?

藤原 簡単に言うと、「劇を使い捨てにしない」ということで、じっくりひとつの劇を腰を据えて考えて批評をしていくという。だから、議論のなかでも「劇に触れていない」という意見もあった。川口さんは劇評家じゃなく作り手としてだから良いと思っていましたが、原則劇評を載せようと話をしていたので……。

鴻 え? 劇評雑誌なの?

高橋 いわゆる舞台評以外は扱っちゃダメだっていうことですか?

藤原 決してそういうわけではないのですが、一応、AICT(国際演劇評論家協会)会員の劇評を中心に載せていきたいという話があったので。舞台に触れていないことに対する意見もあった。

高橋 え? でもそれを言ったら、ステートメント批判として最初にタイトルも含めて、原稿が来ているわけだから、来た時点で即座に断れるでしょう。

藤原 論考ということで掲載したいと思ったのですが。

鴻 少なくとも私が西堂さんと何人かとで動いてシアターアーツを創刊したときには、劇評雑誌だなんていう認識は全く無かったけどもね。劇評ものっける。演劇雑誌ですよ。劇評を中心にした、ある理論誌・文化誌というかたちで。(後記:私が『シアターアーツ』の編集から離れてからもう15年以上経つので、いまの雑誌の性格が変ったことに対して私は編集部に対してこの問題に関してとやかく言う立場にはない、ということを言い添えておきたい。)

西堂 いまウェブっていうことで、載せる本数も分量も少なくなってきている。しかも川口さんの場合、外部の投稿で、しかも硬質でかなり長い(笑)。そういうなかで、どうしても会員優先に書かせる方向になってくる。そのなかで、藤原編集長はがんばってやってると思うよ。1対7を一度はひっくり返したんだから。

高橋 僕が一度依頼されて書いたときは、あんまり劇評っぽくないものにしたつもりでしたけど。あと、ぼくは先日催された国際演劇評論家協会の総会に出席して会員を続けようかと思ったのですが、今回の件を聞いて、もうぼくが「批評」を書いても掲載されないんだと思って、会員をそのまま辞めたのですが。

藤原 そのときはまだ会員でいらっしゃったので。基本的にはそれぞれが原稿一本担当するというスタンス。高橋さんには担当がいました。今回は僕が川口さんの担当だと思っていたんですが、投稿ということでより皆で合議するということだったんですね。投稿はあまり想定はしていなかったんですよ。AICTという組織に100人ほどの会員がいますが、そういう人たちにも書いてもらおうと。今まで第二次・第三次のときは、投稿の原稿をキーにするということをやっていたんだけど、ウェブになったときにもう一回AICTという会自体を見直して、会全体が動いているという風にしたい。それが僕の当初の思いでした。なので投稿というのはおおっぴらに募集していないし、それをどう扱うかについては詰めていなかったというのはあるんですね。そこをどうするかは検討していかなければいけないなと思っています。

劇評とパブリシティ

高橋 劇を使い捨てにしないとシアターアーツ編集部は謳っているとのことですが、これから書いていこうとする書き手を捨てる行為があったことは考えたほうがいいと思う。川口さんが声を上げなければ、この問題はうやむやでしょう。少なくとも、編集部はこれからという人の芽を切ったということは認識すべきだと思う。長い編集会議をしたといっても、川口さんがこれを書くにあたってかかった時間、もしくはこの座談会を組織する労力の方がはるかに大変でしょう。圧倒的に強い組織である国際演劇評論家協会とシアターアーツ編集部という権力に対して、これはおかしいと言って、たった一人で声を上げている。
それで、僕は、率直なところ「劇評」というものが、批評をダメにしたと思っています。劇評、劇評と言い過ぎるあまりに、現場におもねりすぎているところがある。本当は具体的な作品を扱うというのは、シビアなものですよね。でも今求められているのは、PRとか批判さえしなければ内容はなんでもいいというものでしょう。で、ほどほどのことを書いておいたら、大きな劇場ならばなにかいいこともあるかもね、ということが今回の帰結なのではないですか。そういうかたちでしか劇評がいつのまにか機能しなくなっている。だから、舞台評に限らない評論もあるべきだと思っています。
現場とは違った道を批評が提示する、それがたまたま重なるとか繋がるとかすればいい。それはフェアな関係を結ばなきゃいけないはずです。今回だと、端的に見ると現場や状況におもねったんじゃないのかと疑われてしまう要素があった。そういう意味では、あえて言えば、「劇評」なるものが批評を腐らせている部分もあるんじゃないですか。

藤原 僕はあえてそこで一本一本の作品にこだわりたくて、僕の個人的な思いからいうと、演劇批評は一本一本の作品を論じるというところから始まっているんじゃないかなと思うんですよ。

高橋 たとえば、かつてはテクスト中心だった。でもいまは上演になった。それは合わせ鏡で、いつのまにか上演至上主義へと至ろうとしているのではないでしょうか。もっと、抽象的な演劇論があってもいいでしょうし、批評とはそもそも自由にあらゆるものを論じていいということでしょう。そこではじめて劇評というものもある。批評が読める読者、アーティストも含めて、かれらはそういうものを求めていると思う。上演でなくて、ステートメント批判だといっても、少なくともプラットフォームとして機能しようとするならば、——そのつもりはないというなら別ですが——あるレベルを超えていれば掲載すればいいと思う。それが公正さでしょう。

鴻 いずれにしても川口さんのは劇評を書いたつもりで書いたわけじゃないんだから。それはひとつの演劇をめぐる言説についてどう考えるかという話だから。

藤原 劇評中心にと決めていましたが、何がなんでも劇評でなきゃと決めていたわけじゃないんですよ。だからこそ、個別具体的に検討して川口さんの原稿は意義のあるものだから載せたいと思っていたんだけど、劇評でないということに対してどうするかという意見もあって。

鴻 あったんですか、実際に? 編集部のなかに、これは劇評じゃないからダメですと言った人がいるわけね?

藤原 まあ、そういう意見もあって。
そこを詰めていくのが大変だったんですよね。編集部のなかでも誤解があって、何時間も話し合うなかで、少しずつ少しずつ詰めていってようやく見出した結論が、三点の条件付きの再度掲載ということなんですけど。こう何度も二転三転したことについては、僕の至らない点だったと思います。

高橋 この座談会の場は、そういうシアターアーツ編集部の内部運営の話を聞く場ではないと思うんですよ。では、その三点の条件が、批判をトーンダウンさせたという点に関してはどうですか?

藤原 それは僕はよく理解しているんですが、そこをいかに詰めて摺り合わせるかという問題が起きたときに難しい問題でした。

今後の展開

鴻 いずれにしても、この文章はワンダーランドに載っちゃったわけだから、編集部としてこの文章をわれわれはなぜ拒否したのかという文章をシアターアーツに載せるべきですよ。統一見解が難しいとしても、誰かが書くという。それは義務だね。それやってくれないと、編集委員たちをもうほんとに全く信用できないよね。

川口 手続きについては藤原さんから何度か謝っていただいていますし、別に謝罪していただきたいわけではないのです。この文章および宮城さんのステートメント自体をめぐる評を、シアターアーツ編集部からシアターアーツに掲載してもらいたい。シアターアーツ編集部の統一見解でなくて構いませんので、編集部にいる人に書いていただきたいというのが僕の要求ですね。

西堂 編集長の責任として、誰かに書かせたらいいんじゃないですか。

高橋 みなさん「演劇評論家」なんだから。

川口 そこは編集長としては、どうなんでしょう?

藤原 それは、話し合ってみないと。

西堂 だから、基本的に民主的な合議制っていのは、芸術に関してはだいたいナンセンスな場合が多い。1対8であっても、論理が通ればひっくり返せるんだから、多数決でやるっていうのは、編集や芸術の判断では避けなければならないことだ。これが編集部の現場感覚で分かってないと、当たり障りのない原稿ばかりになりかねない。そこで最終的には編集長の独自の判断がなされるべきで、編集長というものの労苦に見合う編集部が組織できていなかったということが図らずも露呈したということじゃないかな。

高橋 みなさん「演劇評論家」として活動していらっしゃるのが、編集部とされているのだから、責任をもってお名前を出されて、どなたかが書いた方がいいと思う。

鴻 1本でも2本でもね。

川口 数本になったときに心配なのは、それが短く内容が薄いものでは困ってしまう。きちんと何が問題なのかということについての論考を書いてもらう必要がある。突っ込んでいってしまえば、いただいた不掲載の理由を読むと、僕が書いた拡張した議論に編集部の方々は全く応答できないのではないか、とすら思ってしまう。

清水 それは先ほどから私が言っているような、そういう問題に触れていく危惧があるから、自主規制しているんでしょ。批判はやめようとかそういうわけじゃないんでしょう? 世田パブの批判は載せてるわけですからね。別にもう批判はやめて、未来志向でいこうとか(笑)。そういうわけでもないわけだから、明らかに自主規制している理由があるわけですよ。

西堂 まあ広い意味での自主規制の話ですね。しかもこれは別に、シアターアーツだけじゃなくて、あらゆる媒体がそうなっていく傾向にあり、縮小している。こういう事情をこうした座談会で切開することで、むしろそういう構造を暴き出す先駆けになるかもしれない。

高橋 なにも返答せずに時間が経てばこんな問題は忘れさられるというのが大人の対応なのかもしれませんが、こうやって表に出てしまったのに放置したら、批評とか言っていても内実はどうなんだ、と媒体自体の信用を失ってしまうのではないですか?
 
鴻 だから編集会議があるわけで、今日の話を聞いているわけだから、それを持ち帰って、編集部としてどうしましょうかというような話し合いと持つことになるわけだよね。

藤原 ということしか言えないですね、今は。

川口 とにかく、編集部の方々が、僕の文章をどういうふうに考え、掲載拒否したのか、それを聞かないとまずは納得できない。編集部に持ち帰ってもしこちらの要求の受け入れは難しいということであれば、もちろんこちらとしては違うかたちで引き続き展開させていきます。
一生懸命書いたものを掲載拒否されたから問題にしているわけではない。宮城さんのステートメントに対して、批評的な言説がほとんど出てきていないという状況に一石を投じたかったわけです。今回のことで、シアターアーツ編集部はなんとなくの形でステートメントを「よし」としているようにしか思えない。「なぜここまで批判するのか、ちょっと弱めてよ」という事なかれ主義にしか思えない。それは問題だと思います。ステートメントがいいと思うのであれば、何がいいのかという論考を書いてもらいたい。
それでは、長時間さまざまに話をさせていただきましたけれど、ピーチャム・カンパニーからの要求は、シアターアーツ編集部に一度持ち帰ってもらって判断いただくということでお願いします。
本日はありがとうございました。