『オペレッタ 黄金の雨』劇評

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加勢文明氏による劇評

「目眩の街」の考現学

(2011年3月20日ソワレ、27日マチネ観劇)

いわゆる劇評の作法からは大きく逸脱してしまうかもしれないが、次のような引用から始めてみたい:

東京は目の眩む所である。元禄の昔に百年の寿を保ったものは、明治の代に三日住んだものよりも短命である。余所では人が踵で歩いて居る。東京では爪先であるく。逆立ちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回つた。
きりきりと回った後で、眼を開けてみると世界が変わつて居る。眼を擦っても変わつてゐる。
(夏目漱石、『虞美人草』より)

漱石の筆は、江戸の風俗から離れ、近代都市へと様変わりしつつあった明治三十年代の東京を「眼を眩ませ」ながら描写する。漱石の抱いた「近代都市」のイメージ、それはおそらく身体の外部に別個に建立されたものではなく、まず第一に身体と思考中枢に襲いかかる事件であり、その持続であり、そしてそれによって混濁する意識そのものである、と僕は思う。そして、それはとても息苦しいものだ、とも。

東京は息苦しいところだ、といったテーマが都市生活者の意識に立ち上る瞬間は一体、どれだけの頻度であるだろうか。少なくないには違いない。とりわけ新宿東口の雑多性、眼を刺すような野蛮な街の照明、そして人口過密、その一切に絶えきれず、人酔いを起こし、「きりきりと回る」ような心地を覚えること、それは「新宿」という経験の必然的な付随物であるようにも思える。しかし皮肉なことに、「それにくらべて昔はよかった」とそのオルタナティヴを探したところで、そんな懐古趣味の言葉にも人はいつしか食傷してしまっていて、21世紀現在、東京の中心部を歩く誰もが最新式のガジェットを装備し、群集のあいだをすり抜けながら、一年前、一時間前、いや、一秒前の自分との断絶に眩惑されている。それが現状だ。僕ももれなくその一人であって、いつ足下を見失うかもわからぬような刺激の氾濫のなかを歩きながら、サイケな夢を見ているような気分で言うのだ。東京、我が罪、我が魂、と。

さて、ピーチャム・カンパニーの手がけたオリジナルの戯曲、『オペレッタ 黄金の雨』が中沢新一の『アースダイバー』を原案とし、「1697年、新宿誕生前夜にタイムスリップ」を謳い文句とした劇であると知って、僕はこの劇にたいしての期待値をあらかじめ低く設定していた。「都市のドラマツルギー」という文句にしてもそうだ。舞台の上に「近代都市」の「起源」があって、劇場の外にその「現在地」がある、という装置を設けることによって、観客は「江戸/東京」といったトポスの変遷を歴史的な時間軸のうえに自らマッピングすることを求められているかのような、そんな印象を受けた為である。これは極論であるが、「新宿の起源」、高層ビルの立ち並ぶ下に埋もれた東京の「素地」、そんなものを垣間見たいと願うのであれば、建設予定地の赤茶けた地面を眺めていればいいのである。しかし、それすらもはや「日常」の隙間にポカリと浮かんだ「非日常」の風景に過ぎず、演劇的なギミックをいくら駆使したところで、それを東京の「原風景」として心のなかに焼き付けることは難しいであろう。なにかが「始まる」前にあったもの(換言すれば「神話的過去」とでも言えるだろうか)を空想し、その情動を身体に転移させるには、現代人はいささか不自由すぎるのだ。不自由—つまり、足下のコンクリートの地面から「前近代」を考察する、そんな思考操作を行うには、現代人はいささかその時間区分さえも乱脈的である。

実際にタイニイアリスに足を運ぶと、そこに設営された舞台は極めてシンプルなものである。簡素な舞台の手前に小さな池がひとつ。それ以外、なにも、ない。その「なにもなさ」が僕の頭に不安となって鎌首をもたげる。

しかし、その舞台の上で三時間弱のあいだ繰り広げられた「タイムスリップ」の様相は、再現不可能な過去を郷土博物館の1/1スケール展示の形で示すことでは(あたりまえだが)なかった。そして、それは僕がチラシを読んで感じ取ったような、1697年を舞台にした創世的なヴィジョンとも、絶妙にズレていたように感じている。

そのかわりに観客と舞台とのあいだにあったものはなんであったか。端的に言えば、それはどこまでも考現的な(つまり、劇場の外にある新宿とリズムを同調させた)目眩とスリルの応酬であった。僕は、舞台上で幾層にも折り重なって展開していく「嘘」、「欺瞞」、そして「偽装」のリズムのなかで、「きりきりと」回りながら、新宿という街を再発見したのだった。それについて、この舞台の肝となるような要素を拾い上げつつ、私見を述べてみたい。

まず人物について。僕の感想では、『黄金の雨』の中心となるような人物関係というものは存在しない。登場人物たちはどこまでも胡散臭く、表層的で、個々の人格に深みもへったくれもなく、与えられた役回りを機械的に反復する。彼らがどのようなペルソナを纏って動こうが、(つまり、彼らが劇中劇のなかにあろうが、その外に位置していようが、)彼らの「表層性」とその「反復」は大して変わらない。ここで、東西・虹の丞という一組の男女だけが、その合間をすり抜けるように、俗臭にまみれた劇団一座と、それに関わる人物たちの背後に影を落とし、戯曲にわずかばかりの奥行きを与えていた、と言うこともできよう。しかし、「幽霊」を自称するこの青年の多分にメタ演劇的な自己言及を、観客である僕は共有できないまま、その台詞の節々に座付き脚本家による自己満足のようなものを感じとってしまう瞬間がいくらかあった。同じことを脚本そのものに関して言えば、貨幣交換にまつわる寸劇や「レヴィ・ストロースも言いました」といった台詞まわしからいかにも文系的な頭のコリを感じることがあった。それら思想劇としての側面を反芻するうちに、こちらもやはり、文系的な思考のコリに捕えられてしまって、『黄金の雨』を新宿の地下劇場で観た、あのときの興奮が身体から逃げ出してしまう。

むしろ、「幽霊」である東西と、過去の亡霊から逃れるように舞台にたつ虹の丞の周囲にいる類型的な、ぺらっぺらの人物たちが織りなす混沌の様相こそが、ただ「軽妙」であるに留まらない『黄金の雨』のポリリズミックな興奮を生み出していた。とりわけ、彼らが歌いだす劇中歌は、要所要所においてその興奮を倍増させる契機となっており、ひとたび演奏が始まるや否や、僕は猫のように背筋をいからせながら、「なにが始まったんだ?」と舞台の隅々を食い入るような視線で見回していた。(先ほど述べた東西による「劇」にまつわる自己言及や、思想劇としての頭の固さなどの要素が、表現者の独善に回収されたまま憮然として劇を観終わることがなかったのも、バンドの生演奏という武器を手にした演出サイド、役者サイドの人間が、観客と同じ緊張感を共有していたためかもしれない。)

では、「はじめの資本家の物語」である中野長者伝説を用い、「神話」や「伝承」から「資本主義」を逆照射するという試みについてはどうか。正直、それがよくわからない。自らの浅学を棚に上げたうえで、シニカルに「よくわからない=失敗」と片付けることは容易だろうが、僕はそれをよしとしない。また、マルクスの『資本論』に直接言及しながら思想劇としての『黄金の雨』を解題していくことも可能だろう。しかし、それも繰り返し言うように僕の『黄金の雨』経験の中心を占める要素ではない。ひとりの劇評家として強調しておきたいこの『黄金の雨』という劇の肝要はやはり、「新宿」の発生以前を時代として設定しながら、きわめて現代的な「新宿」の姿を舞台上に再現してみせたことだろう。ピーチャム・カンパニーが我々を誘った新宿の誕生前夜への「タイムスリップ」、それは気まぐれで、無責任で、業の深いカメレオンたちのひしめき合う「新宿/東京」という空間を体中を穴にして生き直すことだったのだ。「神話」や「伝承」よりもサイケでビザールなものが、舞台上にはあったのである。そして、その「サイケでビザールな興奮」の正体を、僕は東西の次の台詞で知ることとなった:

「メチャクチャなほうがおもしれえんだよ。狂った言葉だ!狂言だ!」

そう、僕たちの知る新宿はひとつの狂言の舞台であり、『黄金の雨』は「狂言のための狂言」である。それを痛感したのち、この東西という青年が「拍手をください!」とせがんだとき、劇を通じてどうにも腑に落ちなかった彼に、僕は本当に拍手を送りたくなった。

しかし、凄いタイミングでこの劇に触れたものだと思う。震災の被害状況にたいしての懸念や、それに必然的に伴う経済規模の縮小の予感などが風説として人の口から口へと飛び交うなか、『オペレッタ 黄金の雨』を観終わった僕がのろのろと歩き出した新宿の街もまた、節電と「自粛」ムードに眩さをひそめていた。しかし、輝度を抑えた街上には、卒業、送別、その他もろもろのイベントに財布の紐をゆるめる酔客たちが舞い戻ってきている。甲高い笑い声と、わがままな靴音、タクシーの間欠的なエンジン音と、山手線のレールの擦れる音、それら一切のあいだから、たくさんの「帰りたい」と、同じくらいたくさんの「逃げ出したい」の声が浮かび上がる。僕はえらをゆっくりと動かすようにしてそれを聞くのだ。

東京、我が罪、我が魂。狂った言葉の泡をぶくぶくと吐き続ける、巨大な水槽。


加勢文明(かせい ふみあき)
東京大学大学院博士課程在籍。一九世紀末から二十世紀初頭にかけてのイギリス文化・文学を専門に研究を行っている。また2011年5月にShinSuiSha Recordsから刊行予定のフリーマガジン『Pink』に短編小説「音楽はポルターガイストのように」を掲載予定。

戸塚学氏による劇評

そこに「虹」はあるか?

(3月25日観劇)

清末浩平脚本・川口典成演出・ピーチャム・カンパニー『オペレッタ 黄金の雨』。この舞台は中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005)が原作とあって驚かされる。それはたとえば、小林秀雄『ドストエフスキイの生活』原作の映画、なんてものへの驚きに類するものだ。だが、なるほど中沢の著作を読む態度としては、部屋で一人書物を黙々と読むことではなく、一つの舞台空間を立ち上げてみせることが正しい応対なのかもしれない。中沢による都市の自由な解読は、開かれた読みの連鎖こそを志向しているはずだからだ。
『黄金の雨』は直接には『アースダイバー』の第二章、「湿った土地と乾いた土地 新宿~四谷」を参照している。室町時代、紀州の神官の一族・鈴木九郎が江戸近郊の角筈村―現在の新宿―に流れ着き、手塩にかけて育てた馬を売った代金を全て観音様の賽銭に替えてしまう。すると九郎は観音様の御利益で莫大な財産を手に入れ、中野長者と呼ばれる大富豪となる。中沢の想像力はこの説話の背後に奥州の金鉱山の存在を想定し、そこに資本主義の源流を指摘してみせる。
この中野長者伝説を、蟻之助(堂下勝気)率いる歌舞伎一座が、伝説の起源の地である角筈村で演じるところから、『オペレッタ 黄金の雨』は始まる。時は1697年。客席正面には、十二社熊野神社の池と歌舞伎の仮舞台が配され、池の周りには役者達が駆け回る木道がめぐらされている。右手には観劇用の小さな客席が設けられ、セットの最後方には黒御簾越しに裃姿のゴールドレイン楽団が控える。『黄金の雨』はこのゴールドレイン楽団のキーボード・ギター・ベース・ドラムスの生演奏に合わせたオペレッタの形式で進行する。現在が過去に、過去が現在に食い込んだ不思議な音の演出。
主人公の東西(浅倉洋介)は、座長の蟻之助に代わって一座の台本を書くゴースト・ライターという設定である。清末浩平の脚本にはしばしばこうした狂言廻し風の人物が作品のメタ・レヴェルの主体として登場するが、東西は終始一座の雑務係としての位置を失わない。演じられる芝居はオブジェクト・レヴェルの芝居として続行される(実は第三幕で微妙な越境がある)。メタ・シアター風の形式でありながら、基本的には境界は踏み越えないように作られている。
さて、劇の出資者である喜兵衛(岩崎雄大)・嘉吉(平川直大)・遊女のおカネ(湯舟すぴか)らの視線にさらされつつ、劇中劇「中野長者 人夫殺しオロチの地獄」の幕が上がる。地元の農民の稲彦(松隈量)・九郎(ワダ タワー)らがいつの間にか役者として舞台に上がっている。
かくして、劇中劇「中野長者」が進行していく。だが、上演を袖で見ていた脚本家の東西は、中野長者・鈴木九郎の娘でヒロインの小笹を、男である蟹三郎(八重柏泰士)が演じることが気に入らず、突如劇を中断して一同の顰蹙をかう。その晩、東西が池のほとりで出会ったのが男物の旅装に身を包んだ麗人・虹之丞(日ヶ久保香)であった。虹之丞が池の端で着物を脱ぎかけた瞬間、それまでの猥雑な喜劇調が影を潜め、静かな緊張感が空間を支配する。「蛇が脱皮をするように、これにしみつく男の匂いと、女のあたしの匂いを脱ぎ捨てて、これまでのあたしとまったく違う誰かの姿を、池のおもてに見てみたかったんです」。東西は虹之丞に、自らの台本のヒロインを演じてくれないかと持ちかける。「あなたは、あなたでない者に変化できるんです」。男が女を演じる歌舞伎の旧形式を転倒し、女を演じる男を女が演じるという二重の倒錯に東西は新形式の狙いを定めた。
虹之丞の参入で、劇中劇「中野長者」は俄然輝きを増す。そこで前景化されるのは、資本の流通と蓄積の物語である。中沢新一が中野長者伝説の中に見出したのはまさにこの点であった。鈴木九郎は馬を金と交換し、その金を純粋に贈与することで莫大な資本を得た。九郎という人物は、人と金の流通によって発展する新宿という宿場町そのものの符号である。資本の流通は蓄積を生む。その蓄積を守るため、九郎は人殺しという業を負う。九郎の業は娘の小笹(虹之丞)が受け継ぎ、小笹は大蛇に化体して九郎の黄金を池の底で守ることになる。実は大蛇を演じる虹之丞自身も、愛する男を見殺しにしたという業を負った存在である。物語と業の、蓄積。淀み。
池をめぐる起源譚を演じ終えた虹之丞に、東西は「まるで水を得た魚」だったと語りかける。すると虹之丞はこう答える。

《虹之丞 あなたはこの池に、あなたの書いた台本をばら撒いたでしょう。あたしが舞台に立つと、その水の中に、頭まで浸った気分になったんです。あなたの言葉の溶け込んだ水に、浮かびも沈みもすることなく、肌は柔らかい幕になって、空っぽの袋みたいな体の中へ、あなたの言葉が流れ込んできました。だからあたし、魚がエラで息をするように。
東西 体を一度通しただけだと。》

虹之丞が卓越した役者の身体を発現しうるのは、他者の言葉を抵抗なく内部に浸透させ別のものに生まれ変われる「空っぽの袋みたいな体」だからである。客席正面の池の水面は東西が破り捨てた古い台本の紙片が覆っており、台本の紙片はその背後に現在の虹之丞の身体を隠す。このことは、東西の書いた言葉の向こうにこそ、新たな虹之丞が立ち上がることを示す。つまり、「中野長者」で交換される貨幣は、舞台上で交わされる言葉の隠喩でもあるのだ。それ自体の使用価値は空虚でありながら、交換された後に事後的に見出される価値。
書かれた言葉によって人は役者となり、役者の交わす言葉によって物語が蓄積される。だから、「中野長者」を引き継いだ続篇「黄金の雨」―ここで劇中劇は260年の時空を跳躍し、1697年という舞台内現在に食い込み始める―では、蓄積された富=物語を人々が再び流通させることに、具体的には黄金を地上に返すことに憂き身をやつすことになる。「中野長者」が流れから淀みへの物語であるとすれば、「黄金の雨」は淀みから流れへの物語である。
ここで、中沢新一『アースダイバー』で紹介されるアメリカ先住民の神話を参照しよう。

《はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物たちがつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーやカモメが挑戦しては失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地はつくられた。》

中野長者九郎の娘・小笹が化体した蛇姫の池を主要な舞台とする「黄金の雨」の背景には、このアースダイバーのイメージが通奏低音のように流れている。深い水の底に一塊の泥を探り当てるカイツブリの試みは、物語を作り出し、演劇を作り出し、そうした虚構の世界の底に現実世界の何かを探り当てようとする我々自身の営みを思わせる。
「黄金の雨」の主人公である武士・由利之進(八重柏泰士)は、池の底の黄金を探せという老中の命に従い、蛇姫が黄金を守る池の底へダイブしてくる。「中野長者」では歌舞伎の舞台であった場所は、今や蛇姫と従者の住居へと変わっている。深い水の底で一握りの泥をつかんだ神話の中のカイツブリのように、由利之進が池の底でつかんだのは、しかし中野長者の黄金ではなく蛇姫という人ならざる者の心であった。蛇姫は由利之進に、地上に黄金の雨を降らせる代わりに池の底に留まるよう懇願し、由利之進は妹を助けたら再び戻って来ようと約束する。蛇姫は由利之進に、妹が託した水天宮のお守りを渡してほしいと頼む。あたかも由利之進の裡を占める妹の場所に、自らのそれを置き換えてほしいとでもいうように。

《蛇姫 (自分のウロコを一枚出して)このウロコを持って行きなさい。どんな小さな光にも、星のように輝きましょう。》

ここで、虹之丞演ずる蛇姫が身を翻すと、舞台上方から射し込んだ照明に、全身のウロコが虹のように七色に輝く。その蛇姫のウロコは、由利之進が妹からもらった水天宮のお守りと交換された。ウロコはさらに、地上で兄妹の自由と交換されるはずであった。ところが、由利之進が地上に戻ると妹は既に死んでおり、用済みの由利之進も殺されてしまう。かくして、蛇姫のウロコは由利之進の死体と交換され、池に投ぜられたそれは蛇姫のもとへゆっくりと戻っていく。この死体と引き替えに、蛇姫が約束通り空から黄金の雨を降らせれば、劇中劇「黄金の雨」は終焉=終演を迎えるはずである。淀みが解放され、全てが流れ始めれば、物語は終わる。だがその先の脚本は、いまだ東西の手によって書かれてはいない。一体なぜか。
東西が脚本を書き続けられない理由は、物語の末尾に上空から何を降らせればよいかがわからないからだ。こうして台本が途切れたところで劇中劇「黄金の雨」は中断され、一座の役者のおシゲ(金崎敬江)と捨吉(本多菊雄)が、潜入捜査官の正体を現して―役柄の交換のモチーフ―虹之丞を捕えようとする。ここで、虹之丞の過去―愛する男との心中未遂と、川の中での虹をめぐる体験―が語り出される。

《虹之丞 上も下も分からずにもがきながら、あたしは、死ぬために川に入ったんじゃない、きっとあたしは、この水の底にある大切な何かをつかむために潜ったんだと、あの人の手をふりほどき、川底に手を伸ばして、握ったのは何でもないただの石。そのとき、刀のような光の帯が、あたしの体を貫きました。それは、まばゆくて、色のない虹。その虹はあたしを貫いて、流れる水を貫いて、空気を、空を、雲を貫いて、降る雪も、街も、時間も、太陽も花も貫いて。あたしを幾重にも貫いて。‥‥いましゃべるまで忘れてました。バカみたい。あんな男のこと、生きるの死ぬの。またこんな気持ちになれるなら、色のない虹があたしを貫いてくれるなら、あたしは何度でも舞台に立って、あのときのことを話します。》

虹之丞は、愛する男・豊雄を追い続けていれば何かをつかめると信じていたが、川の流れに身を浸した瞬間、それまでの誤解に気付いてしまう。「水の底にある大切な何か」とは、虹之丞が手を伸ばして「ただの石」をつかんだ瞬間、身体を貫く「色のない虹」として体感される。本当に大切なものは、黄金のようなまばゆい輝きを持つものではなく、そこにあって確かな手触りだけを持つ、平凡で身近でつまらない何ものかにこそ宿る。中沢新一『虹の理論』(新潮社、1987)の中では、天と地を媒介するもの、社会と社会を媒介する「虹」の神話が語られていた。流れから淀みへの物語、淀みから流れへの物語を経て、『オペレッタ 黄金の雨』は最後に、この形も色もない「虹」へ向かっての漸近運動を開始する。
東西は、虹之丞の独白を聞いて、台本の続きを書き始めることが可能となる。かつて、芝居小屋の紙吹雪が単なる紙にしか見えなくなった東西、そして上空から降り注ぐ黄金の雨を書けなかった東西は、虚構を虚構としてしか眼差せなくなった存在であった。その東西が、虹に体を貫かれた虹之丞の体験を聞いて「水の底にある大切な何か」をつかみとる。東西は、池の水にひたした筆で台本の続きを書き、それを読んだ虹之丞は「黄金の雨」の末尾を演じ始める。いや、正確には生き始める。

《虹之丞 人とは何という生き物か。あなたの命は、もう私のものであったのに。私の命も、もうあなたのものであったのに。‥‥ここにいらっしゃるかぎり、眼を開けることはありません、由利之進様。もうお帰りなさいますな。白銀、黄金、球、珊瑚、千石万石の知行より、私が身を捧げます。その身を斬らせる老中の代わりに、私の心を差し上げます。私の命をあげましょう。あなた、お帰りなさいますな。そして、地上の人間には、私の守ってきた財宝を、いまこそお返しいたします。いまこの瞬きの間だけ、流れるでもとどまるでもなく、体を貫くのは色のない虹!》

池の水に浸された筆で書かれたという文字は、本当に可視化された文字だったかどうか。だが、虹之丞はそこに「黄金の雨」の最後の場面を読み取り、舞台は虹之丞と東西の身体を通して立ち上がる。この場面、虹之丞は「由利之進」に語りかけているが、虹之丞の腕の中に抱きかかえられ、我々の眼前に晒されているのは脚本家・東西の身体である。だから、「あなた」という二人称が指示するのは、虹之丞の恋人・豊雄であると同時に、今ここに語られている言葉を紡いだ東西である。虹之丞は蛇姫の役を演じているはずが、語られる言葉は豊雄の手を川の流れの中で手放した虹之丞自身の言葉―いまこの瞬きの間だけ、流れるでもとどまるでもなく、体を貫くのは色のない虹―である。この時虹之丞は、蛇姫であると同時に虹之丞自身の現在を生きている。
ここにおいて、淀みと流れという二項対立を無化するものとしての「虹」が提示される。流通する言葉と、蓄積される物語を越え、両者をつなぎ貫く生々しい現前性としての「虹」。「虹」は流れと淀みを越えるだけではなく、虚構と現実の間を貫く。その瞬間、虚構と現実の境界が食い破られたかのように、舞台の上には大量の黄金が降り注ぐ。交換価値を持たない、夢として追い求められた空虚な記号としての黄金。東西が破り捨てた台本の言葉のように、この舞い落ちる黄金は、それまで語られてきた『オペレッタ 黄金の雨』の言葉の記憶を観客としての我々の上に降り注ぐ。ばらまかれる黄金は、虹之丞演じる蛇姫の体表を覆っていたあの七色に輝くウロコをも思わせる。色のない虹、見えるはずのない虚構と現実との蝶番が外れる瞬間は、この舞台末尾に用意されている。
かくして舞台の末尾、蟻の助一座の出資者である喜兵衛が次のように高らかに宣言する。

《喜兵衛 そうです、みなさん。街道が二つに分かれるこの場所に宿場町を作れば、旅人がお金を落としていくだけでなく、江戸近郊の素晴らしい行楽地になります。現物の黄金なんて、なくてもまったく問題ありません。旅籠や茶屋に女の子を置けば、世の男性のパラダイス。そうやって作られていく一大歓楽街が、はっきりと目に見えるようです。―その街の西側、ちょうどこの池のあたりには、天をつくギヤマンの楼閣が、巨大な卒塔婆のように建ち並び、まるで空に向かって架けられた水晶の橋桁だ。東側には歌舞伎の町が作られ、大きな芝居小屋のまわりでは、赤や紫の着物の花弁をひらつかせた女たちが思い思いに男を取って、そこからさらに東へ歩けば、男が春を売る町もある。お天道様が沈んでも、夜空の星々だけでなく、地上の珊瑚も輝き始めて、昼さながらに目のくらむ、日本一のめまいの都。それが、私たちの街、新宿です。》

「現物の黄金」などなくても、行き交う人の群れがあれば、そこには金の流れが生じる。ちょうど今、舞台の上を言葉が縦横に行き交うことで、劇が生じているように。そういえば、黄金の雨をこの場に降らせた狂言作者の名は、言葉と貨幣の流れそのものを象徴する東西であった。
観客が座しているタイニイ・アリスが位置している現実の新宿の街と、たった今我々の中を駆けすさった言葉と音の作り出した新宿の街と、どちらが本当の新宿なのか。舞台上から役者が姿を消すと、舞台の照明が落ちてゴールドレイン楽団が音量を最大に上げ、音の群れを我々の身体にたたき込む。私達の中をたった今、音の群れとともに貫いたそれは、二者択一を許さない確かな現実にほかならない。カイツブリが水底の泥から世界の全てを構築したように、そこには虹のように身体を貫く戦慄とともに立ち上げられた、一つの確固たる世界が存在する。
不満がないわけではない。第一幕の劇中劇では舞台と言葉の乖離が感じられたし、オペレッタ形式を成立させる歌の完成度や、特に歌詞が言葉として届かないといった問題。資本の流通形式やレヴィ=ストロースへの言及は煩瑣ではなかったかなど。だが、堂下の蟻之助は役柄に嵌っていたし、八重柏の身体はいつもながらに屹立し、何より主役の浅倉洋介・日ヶ久保香の好演が光った。今回の舞台の勘所は色も形もない「虹」を今ここにあるものとして指し示せるか否かにかかっていたと思われるが、最後の最後で「あがっている」という印象を受けた。だが我々は、果たして演劇という形式の彼方に、本当に「虹」のような何かを探り当てることができるのか。惨禍の余波の中敢行された『オペレッタ 黄金の雨』は我々をそうした問いの中に投げ込む。urban theatre series の第三弾に期待したい。

戸塚学(とつかまなぶ)
1980年静岡生まれ。専門は日本近代文学研究。関心領域は昭和文学と作家の翻訳行為の関連性について。


出口智之氏による劇評

(3月25日観劇)

清末浩平が帰ってきた、という気がした。
思えば、清末演劇を見るようになって、もう十年になる。初期の濃密なドラマから前衛的な手法を用いた試み、ユーモア路線への転換、近年の脚色や翻案ものにいたるまで、彼はつねに言葉と肉体とを駆使して、演劇の内奥に分け入ろうとしていた。そのいとなみは、創造であると同時に探究だった。もちろん、あらゆる創造的行為は探究の側面を持つが、しかし舞台がはねたあとの路上で見る清末の頰には、探究者としての厳しさが色濃く刻まれているようだった。
その避けがたい代償として、清末演劇は好不調の波が大きかった。時に圧倒的な迫力で劇場全体を包み込み、世界を変えてみせたかと思えば、時に舞台が舞台でしかなく、役者が役者その人でしかなく、観客が観客のままで終るようなこともあった。とりわけ、何かの原作をもとに書かれた数作には、今ひとつ物足りない印象が強かった。演出や役者の伎倆は十分なだけに、やはり翻案やリメイクには傑作が少ないという世間一般のジンクスが去来するのだが、もう一歩踏込んで言うならば、それは清末演劇の根幹をなす、言葉の強度にかかわっているように思われる。
清末浩平の作品の魅力は、何よりもまず、その強烈な言葉にある。初期の作品で多用された呪言のようなリフレインや、洪水のように溢れ出して劇場を呑込む台詞の奔流。自在かつ多彩に展開され、叩きつけるような迫力で世界を形づくってゆくそれらの言葉が、しかし原作にもとづいた作品にあっては、その世界から乖離し、別の次元で動いているように見えた。原作と融和した魅力が生れるというよりも、舞台上で二つの個性がすれ違っているようだった。
だが、今回の「黄金の雨」はそうではなかった。中沢新一の「アースダイバー」を原作にしつつ、借りたのはおなじ場所の過去と現在を重ねるという着想と、かつて新宿附近に住んでいたという中野長者の伝説だけで、演劇全体の結構は清末浩平の創作にかかる。しかもそこには、これまでの清末作品に繰返しあらわれてきたモチーフが、新たな生気を得てよみがえっていたのである。

作品はまだ農村だったころの新宿近辺に、旅の歌舞伎一座がやってきて巻き起す騒動を描いている。一座は土地の伝承、すなわち大昔に鈴木九郎という大金持がいたものの、悪事の報いで財宝は池に消え、蛇と化した彼の娘が今もそれを守っているという物語を芝居に仕立てようとする。しかし、ヒロインを演じる役者がおらず、また脚本の結末も決らぬままに、舞台稽古は頓挫してしまった。そこへ通りかかった一人の女と話すうち、座つき作者であるゴーストライターの東西は、彼女を使った禁制の女歌舞伎の実行を決意する。しかし、その女は秘められた過去を持っていた…。
このような本作の物語には、これまでの清末作品に通底するモチーフがいくつも見て取れる。劇中劇でヒロインを演じている女、虹之丞が語るかつての恋人との秘話は、「サーカス」「熱帯、雨の少女」などに見られた少女の過去をめぐる濃密なドラマを想起させるし、東西が抱える書くことの苦悩は、「ノスタルジア」の石原吉郎や「隕石」の原民喜につながっている。蛇姫の棲む水底の異界は、「グラジオラス」でも出てきたものだった。清末浩平が帰ってきた、と感じた所以の一つは、ここにある。
とはいえ、これは清末の想像力が、原作のかすかな桎梏から解放されたということを言っているのではない。また、結局は退歩でしかないような、単なる過去への回帰を見ているのでもない。「黄金の雨」において重要なのは、清末演劇に底流してきた幾多のモチーフが、原作と調和した形で各々の翼を広げていることである。おそらくは、「アースダイバー」が物語でもまた伝記でもないがゆえに持ちえた、このような原作との安定した距離は、実は清末浩平の言葉の構築法と深く関わっている。

清末の作品はどれも、多種多様な先行作品からの引用や参照を含んでいる。「ノスタルジア」や「隕石」のように明示的な場合もあれば、速射される台詞の裏側にひそやかに紛れ込んでいることもある。本作でもまた、リーフレットに「参照および引用させていただいた主な資料」として挙げられたいくつもの作品以外にも、たとえば近松門左衛門「女殺油地獄」から高村光太郎「智恵子抄」、菅原都々子の「月がとっても青いから」にいたるまで、様々な作品が踏まえられていた。清末はパロディ化して作品に織込んだそれらの文辞をある種のノイズとして、すなわち、たとえば江戸という時代設定にはそぐわないながら多用される英語の会話などと同様に用いて、その叩きつけるような言葉を練上げてゆくのである。これらの燦めくようなノイズがなかったら、清末の言葉の魅力は半減してしまうだろう。
すなわち、清末演劇は変形と歪曲から立ちのぼる、混沌の力に大きく依っているように思われる。少なくとも、成功した作品においてはそうである。原作や先行作品を混線させ、攪拌して紡がれる彼の物語と言葉には、原作への敬慕からくる謹直とそれを打ち破る狂奔とが共存している。その意味で、「アースダイバー」と「黄金の雨」との距離は、清末演劇の魅力を発揮するに最適であった。
こうした特質を持ち、また文字どおりテクストとしての表徴を刻まれた清末の文章は、固定的な物語世界のみに奉仕し、そのなかに閉塞することを拒絶する。江戸の馬がロールスロイスという名であるわけはなく、彼らが映画「ゴースト/ニューヨークの幻」を知るわけはなく、まだ埋ってもいない徳川埋蔵金発掘プロジェクトを糸井重里が行っているはずもないのだが、そうした「黄金の雨」の言葉の数々は、作中世界の調和と秩序とに抗い、あるいは二重写しにされた先行テクストへの通路を開いてゆく。そして、ここで興味ぶかいのは、かかる清末の言葉のありかたがそのまま、本作のテーマと相似形をなしていることである。

本作が周到に仕組まれた劇中劇の構造と、秘められた女の過去の物語との相関によって問題化するのは、演劇という虚構と現実との関係である。ヒロインを演じた虹之丞は、はじめて舞台に立った時のことを次のように話している。

あなたはこの池に、あなたの書いた台本をばら撒いたでしょう。あたしが舞台に立つと、その水の中に、頭まで浸かった気分になったんです。…さっき、あなたの池の中で、エラで呼吸をしてたとき。…水の底に、ギラギラと黄金色に光る、何かの塊が見えたんです。…黄金でできた般若の面でした。…般若の面は眼を見開いて、あたしを蛇と呼びました。…月の光がひと筋差すと、黄金の面はあたしの顔に。だからあたし、いまも半分はその面なんです。(第二幕)

虹之丞が演技の向こうに見た黄金の般若の面は、彼女の言葉によれば、去っていった恋人を追い続けた彼女自身の過去だった。虚構を演じる彼女にも、常に重い現実の記憶がつきまとっていたのである。捨てようとしても捨てられぬこの悲恋の物語は、しかし一座に潜入捜査中だったおシゲと捨吉によって、実際には虹之丞が恋人を死に追いやった出来事であったことが明かされる。彼女を捕えようとする二人に対し、立ちはだかった東西はこう言放った。

どんな立派な黄金をこいつの底から引き上げたつもりだ?水から引き上げちまったら、そんなモンただ重いだけの石の塊よ。歌舞伎の一座に紛れ込んどきながら、てめえら芝居と現実の区別もつかねえのかよ?(第三幕)

ここで彼が力強く言明しているのは、虚構が虚構であるがゆえの輝きにほかならない。彼は心中にまつわる虹之丞の告白を、すべて自分が書いた芝居だと主張し、現実と虚構との境界を朧化することで、虹之丞の罪という現実世界の「石」を、黄金のままに保とうとしているのである。
やがて物語は、東西が書いた脚本の終幕へとなだれこんでゆく。中野長者の伝承から離れ、水底の蛇姫が訪れた人間に恋し、死して姫のもとへ戻ってきた彼との約束を守って、財宝を地上に降らせるクライマックスである。この場面が虹之丞によって演じられた瞬間、舞台には実際に財宝が雨となって降りそそぎ、それを探していた者は狂喜する。東西の作り出した虚構が、現実を凌駕するまでの存在感を放ったのだった。
ところが、彼らがその黄金をよく見れば、今では使いようのない過去の兌換紙幣であった。伝説はやはり、現実に引出された時に価値を失ってしまうのであって、それは先の東西の台詞ですでに予言されていた。虚構はあくまでも、虚構のなかでしか輝きを放つことはできず、その現実世界における価値を問うてみても意味がない。しかしながら、そのことを繰返したうえでなお、「黄金の雨」のラストシーンは、喜兵衛の次の呼びかけによって閉じられている。

その街の西側、ちょうどこの池のあたりには、天をつくギヤマンの楼閣が、巨大な卒塔婆のように建ち並び、まるで空に向かって架けられた水晶の橋桁だ。東側には歌舞伎の町が作られ、大きな芝居小屋のまわりでは、赤や紫の着物の花弁をひらつかせた女たちが思い思いに男を取って、そこからさらに東へ歩けば、男が春を売る町もある。お天道様が沈んでも、夜空の星々だけでなく、地上の珊瑚も輝き始めて、昼さながらに目のくらむ、日本一のめまいの都。それが、私たちの街、新宿です。

「黄金の雨」は、虚構の過去から現代の新宿を描写するこの言葉によって閉じられ、閉じられるとともに虚構空間のなかにいた劇場全体を、現実の新宿へと投げ返してゆく。それは、現実の反転である虚構が、つねに現実との緊張関係を保つことでそれを異化し、その先に新たな現実への廻廊を開きえることの輝かしい宣言にほかならない。かくして本作は、作中世界の完結を打破り、その外側の観客へ、そして新宿という街へと開かれていったのだった。ここに見られる、自分自身をも打破ろうとする強烈なエネルギーはすなわち、清末浩平のあの文体にも内在していたものであって、本作は両者の相乗により、久々に清末演劇の圧倒的な破壊力を見せつけてくれたのであった。
これまで、清末はいくつかの作品で、演劇の虚構空間と実際の場所とを重ねあわせる試みを行ってきた。本作とおなじように新宿を舞台とし、伏在する場所の記憶から都市を異化してみせた「陽炎」や、あるいは夢の島に佇む第五福竜丸の隣で演じられた「幽霊船」がそうであった。本作はそうした先行作の上に立ち、古代と現代とを重ねることで東京の新しい一面を発見しようとした「アースダイバー」に想を得た、清末演劇の新しい局面のはじまりであった。そう、清末浩平が帰ってきたのである。


出口智之(でぐちともゆき)
1981年生。東海大学文学部専任講師。博士(文学)。専門は日本近代文学で、特に明治期の文学を中心に、近世から近代への文化的接続という観点からの作品読解を志している。『幸田露伴と根岸党の文人たち』を2011年6月に刊行予定。


高倉麻耶氏による劇評

深く掘る、潜るということ

(2011年3月25日観劇)

ピーチャム・カンパニーという劇団のメンバーは、みんな知的な顔をしている。きっとインテリ集団に違いない。まあ冗談は抜きにしても、中沢新一氏の著書『アースダイバー』を舞台化しようという時点で、これが知的な野心に基づく企みであることは明白だ。既存の物語を舞台化するのではなく、人類学者のエッセイを物語化し舞台化するという、知性の門から入る仕事に手をつけた。
意識の水面下で繋がっているひとつのものが、水面上では別々のものとして捉えられている。折に触れ、そんなことを感じるようになった。潜在意識の奥底に、知性・感性という二つの道が繋がる(あるいは分かれる)場所があるはずだ。確かめるには、心という海にダイブしてみるしかない。
「掘る」と「潜る」はよく似ている。物事は、深く掘り下げて出発点を探っていけば、やがて同じ原点へ辿り着く。それは、水面上では二つの氷山に見えていたものが、水面下に潜ってみれば実は同じひとつの氷塊であった、と発見することに似ている。ただしその「深く掘る」という行為は、決して容易なことではない。

これは、田口ランディ氏のエッセイ集『聖地巡礼』で知った話なのだが、常陸国一ノ宮の鹿島神宮には「要石」と呼ばれる石が祀られており、地震を抑える石と言われているが、地表に出ている部分はとても小さい。昔、徳川光圀が命じて石の根元を人夫たちに掘らせたところ、七日七晩かけても掘り出せないほど大きな岩だったという話がある。見た目は直径40cm程度のこの石が、実は地中深くまで続いている巨大な岩盤の一部だという。この要石は、「地震を起こす鯰の頭を押さえている」という伝説を持っているのだが、江戸時代初期頃までは、地震を起こすのが鯰ではなく龍と言われていた。龍は地下に脈々と蛇行する水の象徴だと考えれば、迷信的な言い伝えのように聞こえる話も馬鹿にできないものがある。
もうひとつ、下総国一ノ宮の香取神宮にも要石が祀られている。香取神宮のほうはぽっこりとした丸い石なのだが、これに対して鹿島神宮の要石は上部が凹型になっており、二つの石は不思議な対称性を持っている。地中の深い場所のどこかで、実は二つの石が巨岩となって繋がっているのかもしれない。興味深いが、当然、事実を確かめるのは難しい。

タイニイアリスという新宿の地下劇場で、新宿という街の誕生に関わる演劇を上演するということには、意義がある。舞台美術も凝っている。背景には、役者絵を大きく線描した壁――と思いきや、これが実は壁ではなく黒御簾のような幕であったことが、開演後に照明でわかる仕組みとなっている。最初は見えない状態なのだが、実はその幕の後ろに裃(かみしも)のような衣装を身につけたロックバンドが控えている。生バンド演奏が始まり、光が当たると彼らの姿が見えるようになっている。下座音楽をイメージしているのだろう。
劇場の中心あたり、舞台と客席の分かれ目となる場所には池が作られている。青緑色に濁っているように見え、実際に水を張ってある池だ。その池のまわりを、ドーナツ状に囲うようにして低い足場が用意され、奥にはやや高くなるように、正方形の板張りの壇をしつらえてある。演出担当の川口典成氏によれば、この池はどうしても必要だったという。『オペレッタ 黄金の雨』(以下、『黄金の雨』)において、重要な位置を占める仕掛けである。

『アースダイバー』の中に、都市がドーナツ状に発展するという話がある。日本の首都・東京では、皇居のまわりをぐるりと囲むようにして高層ビルが乱立し、重要な道路が大きくメリーゴーラウンドのように、円を描いて走っている。『黄金の雨』の池とそのまわりの足場は(もしかしたらその意図はないかもしれないが)、♀記号のようで女性を連想させるほか、都市のドーナツ状展開の縮図を眺めているようで面白い。
皇居は神と人とを結ぶ天皇の住まいであり、過去と現在を結ぶ場所でもある。この舞台における池は中野長者伝説の池だが、第三幕の劇中劇で、虹之丞が演ずる蛇姫の住まいに変わる。蛇姫は、二百六十年のあいだ宝物を護ってきた人外の存在。天皇も蛇姫も時間を超えた者として、環の中心となる「穴」に棲んでいる。
これに対して、岬のような「先端」にあたるものが舞台装置には見られなかった。『アースダイバー』に出てきた重要な話をざっくりまとめると、縄文時代の東京はリアス式海岸で、フィヨルドのように入り組んだ形の海岸線ができていたらしい。東京タワーは、縄文時代に岬の先端にあたる場所に建っている。その頃に湿った土地だった場所は、今も<水―蛇―女>の繋がりを持つ風俗性がある。
このイマジネーションからすると、やはり舞台にはこの池と呼応するように、はっきりとした岬の地形がほしい。だが、次なる公演で先端・塔・岬についての考察を盛り込むという形で、それが補完されるのかもしれない。

俳優はおおむね好演だったように思う。音楽も観客として純粋に楽しめた。「WGW(ヴェーゲーヴェー)」をしつこいほどに繰り返すコーラスの箇所があるのだが、マルクスの『資本論』を知らなくても意味がわかるように易しく、ドタバタと走りまわるコミカルな演出がなされていた。「アースダイバー」と唱和するメロディーも、耳に程よい心地よさが残る。
やや物足りなく感じたのは、会話のところで人物の動きが止まってしまったり、棒立ちになりやすかったこと。遊女のおカネ(湯舟すぴか)も色気が出しきれていなかったような気がする。原因は、足場をうまく使いこなせていないことにあるのではないだろうか。池のまわりで動きが制限されており、登場人物の多さがいまひとつ生かされていないように感じた。パワフルな舞台だったとは思うのだが、俳優たちの動きが狭苦しそうに見えてしまった。
それから、第三幕でしゃれこうべが小道具として使われるのだが、エロスに対してタナトスを象徴するこの髑髏がただ真っ白なだけで、サイズもちょっと大きすぎるし、いかにもお粗末である。そこはもう少しこだわって、本物らしく作り込んだほうが良かったのではないか。

さて、それでは勇気を出して、『黄金の雨』の物語にダイブしてみよう。
脚本は中野長者伝説の部分を起案とし、新しい宿場町を築こうと企図する者たちと、彼らに雇われた旅の歌舞伎一座、そして中野長者の末裔らが織りなす喜劇として構成されている。その歌舞伎一座が、蟻之助(堂下勝気)率いる「蟻之巣座」(もちろん、このネーミングはタイニイアリスの名前に引っかけてある)。一座に東西という男がおり、役者としては大根、裏方としても全く役に立たないために、ついには蟻之助のゴーストライターとなって台本を書いているという設定だ。
さて、その東西が徹夜で台本を書いているとき、池のふちに謎の女(日ヶ久保香)が現れる。ふたりの会話の成り行きで、女は性別を隠し(※女歌舞伎は御法度である)、虹之丞という名の女形として、中野長者の娘「小笹」を演じるために舞台へあがる運びとなる。
虹之丞の素性が割れて姿を消すまでの淡く儚いロマンスは、虚構の上に虚構を築き上げる楼閣のごとき劇中劇のなかで、現実と非現実の狭間を漂い「何がほんとうで何が嘘かわからない」という感覚を巧みに喚起する。しかし単にこれだけのことならば、「アースダイバー、関係なくない?」と観客に首をひねらせる結果となっていただろう。

原作『アースダイバー』と、それを舞台化した『黄金の雨』との繋がりが、一見希薄であるかのように見えるのは、「縄文」というキーワードのせいではなかろうか。物語の中に、縄文時代に関わることは何も出てこない。
だが、原作タイトルとなっているアメリカ先住民の「アースダイバー」神話――勇敢なカイツブリが水底に潜って一握りの泥を掴み、これが材料となって陸地がつくられたというエピソード――は、『黄金の雨』の物語にしっかりと盛り込まれている。
東西が書く第三幕の劇中劇では、老中が蛇姫の護る財宝を手に入れようと企み、由利之進はやむなき事情で池にダイブする。蛇姫・由利之進のロマンスが虹之丞・東西のロマンスの二重写しとなり、男女の性は衣装によって交錯する。蛇姫の側近であるナマコに、「男にも女にもなれる」というセリフがあるのは面白い。
虹之丞というネーミングは、東西の放つ印象的なセリフ「女形は舞台にかかる虹です」という部分に依拠している。男装した女でありながら女装した男であるという倒錯の中に、彼女は両性具有の美という一種の完全性を備えているのだ。虹は、人間を超越した幻想の偶像を示すものである。
虹之丞は、東西が望んでも持ち得なかった「カンドコロ」、すなわち演技の才能を持っているのだが、その理由は「一度は死んだ身と思いなして、重い魂が抜けてしまったから、あなたの言葉も染み込む空っぽの体になったのではないでしょうか」と虹之丞自身が述べている。このくだりはなかなか魅力的だ。
書き手=創造者である東西は、名も知らぬ女=水に潜って、その水底で掴んだ想念=泥を材料とし、みずからの放つ言葉を、器としての舞台=陸地としての役者の体に通すことによって、新しい世界を築こうというのである。
虹之丞が蛇姫を演じることは、アボリジニ(オーストラリア先住民)の神話に出てくる虹の蛇と絡ませてある。

カイツブリは小型の水鳥で、あまり美しくはなく、特段目立つところのない鳥である。トールキンの『指輪物語』では、英雄とは程遠い、小さく無力な存在であるホビット族のフロド・バギンズが世界を救うことになるのだが、カイツブリが活躍するアースダイバー神話には、ホビットが活躍するこの有名なファンタジーを彷彿とさせるものがある。トールキンが『指輪物語』を書く前にこの神話を知っていたかどうかはわからない。ユングの言う集合的無意識で人間が共有している原型のひとつに、このような「平凡な者の力」を示す物語があるのかもしれない。
第一幕の序盤で、東西は自分たちの一座を「つらい冬をじっと耐える蟻だったんです」と表現する。それはアリとキリギリスの寓話でありながら、小さく無力な者としての人間存在を暗示する。そして締めくくりには、新宿という街が生まれる最初の一歩が、宝探しで掘り当てた金塊などではなく、ニーズに応じた経済活動の結果であったということが重ねて示唆されている。甲州街道と青梅街道の繋がる場所に、新しい宿場町(=新宿)をつくろうという野望を抱いた、商人・喜兵衛(岩崎雄大)のセリフである。

(上演台本より引用)
喜兵衛 そうです、みなさん。街道が二つに分かれるこの場所に宿場町を作れば、旅人がお金を落としていくだけでなく、江戸近郊の素晴らしい行楽地になります。現物の黄金なんて、なくてもまったく問題ありません。旅籠や茶屋に女の子を置けば、世の男性のパラダイス。そうやって作られていく一大歓楽街が、はっきりと目に見えるようです。…(以下略)

東京をはじめ世界各国の都市に「天をつくギヤマンの楼閣」を「巨大な卒塔婆のように建ち並」べたのは、神でも悪魔でもない、蟻のように小さな人間たちの集団なのである。なにも縄文に触れなくとも、『アースダイバー』の骨子となる思想や、「深く潜って大事なものを掴む」という精神は、作品全体を貫く態度として反映されている。よくできた脚本だと思う。
ただ、せっかく喜兵衛・おカネという男女を出したのに、彼らが単なる脇役で終わってしまったことは惜しい。冗長な部分を削れば、もう少し活躍させられそうなのに。

この折、地震と津波の被害およびそれに伴う福島第一原子力発電所の事故により、日本は戦後最大の危機と言われるほどの国難に見舞われた。それは現在も継続し、事態の悪化をふせぐために懸命の努力が続けられているが、国民には不安の波が広がっている。
アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に、「よくわからないものを無理して使うからよ!」という葛城ミサトのセリフがある。ゴジラが水爆実験への反発を象徴する存在であったように、エヴァンゲリオンは原子力に対する不安を象徴する怪物なのだと仮定すれば、やたら電気との関わりが強調されているのもうなずける。「ヤシマ作戦」が合い言葉となった背景には、その不安が潜在的に流れていたのではないか。
実は、エヴァンゲリオンとよく似たものが、中沢氏の著作集『ミクロコスモスⅠ』の中の「超核の神話 岡本太郎について」の章で紹介されている。『太陽の塔』と同時期の1968~69年に制作された大壁画『明日の神話』である。この絵は、1954年に起きた第五福竜丸の被爆事件をモチーフにして描かれた。画面中央の燃える骸骨、その左側にある赤い大きな目玉、天空に浮かぶ不気味なものたちの姿をみて、「使徒みたい」と感じた人は少なくないだろう。『明日の神話』の醸し出す不穏な悲惨さは、明るく朗らかな縄文的造形をもつ『太陽の塔』とは対照的だ。
奇遇にも『黄金の雨』の公演と同じ時期に、東京国立近代美術館では生誕100年を記念して岡本太郎展が開催された。シンクロニシティというべきか、意味のある偶然の一致と思えてならない。『明日の神話』と『エヴァンゲリオン』を「原子力」という糸で繋ぐと、いま起こっていることのフラグが見えてくる。芸術が社会を映す鏡であるならば、この先の未来で起こることは、今まさにつくられている作品の中で予見できるはずだ。

『黄金の雨』で、ピーチャム・カンパニーは現代社会における経済活動の虚偽と浅薄さを取り上げつつも、一面的な価値判断を離れ、それを俯瞰しようとしている。金の亡者=悪ではないし、愛=善でもない。そして、芸術の真髄を求道的に求め「何を降らせるべきなのか」「なぜそれを降らせるのか」などと懊悩する不器用な男の存在が、この物語を格段に面白くしている。そう、芸術家は必死になって世の中を面白くしようとするのだ。
では、彼にとって「黄金」=価値あるものとは、いったい何だったのか。「あなたは僕のお金です」と繰り返し言ったその意味を、女は理解しなかった。「私の命をあげましょう」と叫んだ蛇姫のセリフに、手の届かない理想の愛という虹に想いを馳せる東西の、本音が滲み出ているようで切ない。


高倉麻耶(たかくらまや)
1976年京都府生まれ。筑波大学芸術専門学群卒。短編小説『星の降る丘』が第2回ショートストーリーなごやにて大賞を受賞し、映像化される。作家・堀田あけみに師事し、小説・シナリオ・戯曲等の執筆に取り組んでいる。

<参考文献>
中沢新一『アースダイバー』講談社(2005年)
中沢新一『ミクロコスモスⅠ』・『ミクロコスモスⅡ』四季社(2007年)
田口ランディ『聖地巡礼』メディアファクトリー(2003年)

棚瀬あずさ氏による劇評

(3月20日ソワレ、28日マチネ観劇)

ピーチャム・カンパニーの今度の劇は「オペレッタ」だと最初に聞いた時、率直に言うと、なんて怖いもの知らずな人たちなんだろうと思った。ややネガティブな意味で、である。私は演劇作りに携わったことがないから素人の勘にすぎないけれど、楽曲の質の高さはもとより、演出、脚本、歌等々、あらゆる要素が通常の演劇とは異なる特殊なやり方で完璧に調和していなければ、作品を形にするのすら難しいような気がしたのだ。
そういうわけで半ば疑わしい気持ちで会場に向かったのだが、観終えてまず一番の感想は……「面白かった」。とても素直に、役者の皆さんの演技や音楽や演出を、最初から最後まで心から楽しんだ。何をおいても、誰もが笑顔になるようなエンターテイメントとして『黄金の雨』を形にしたことは、賞賛されるべきであると思う。だがここでは、その単なる「面白い」を越えて私が感じたこと———「オペレッタ」であることの意味と、作品は何を伝えたかったのかについて———を書いてみたい。

 「オペレッタ」として

あえて「オペレッタ」をやるからには、そうするだけの理由がなければ意味がない。『黄金の雨』はどうだろう。公演パンフレットにはこうある。「今回の場合は、巨大なテーマに対してポップでファンキーなタッチで臨むための我らの旗印」。なるほど、でも「ポップでファンキー」ではないアプローチだって幾らでもありえるではないか? もう少し考えてみよう。
劇中には音楽の付かない台詞で進行する場面も多くあった。そして、観劇後に思い返してみて初めてはっきりと気がついたことだが、役者陣のうたう歌は決して恣意的に挿入されているのではなく、劇中で歌舞伎が演じられている場面に限られていた。これは、『黄金の雨』の物語の重層性———登場人物たちにとっての現実である1697年の新宿と、彼らの作る歌舞伎が題材とする中野長者伝説の世界———を表現する仕掛けとして、とりわけ劇の後半において面白い効果を生んでいたと思う。例えば三幕には、歌舞伎一座の面々に混じって、浅草の商人である嘉吉や喜兵衛がうたう場面があるが、彼らは本来ならば歌舞伎に出演しているはずがなく、それまでの流れから考えると少し奇妙なのだ。この奇妙さが、劇の後半に向かうにつれて起こる重層性の混濁(これについては後述したい)を観客に体感させるのに一役買っていた。また、逆に、虹之丞(別れた恋人を追って江戸に辿り着いた女)扮する蛇姫が想い人の亡骸を抱きながら独白するクライマックスでは、歌舞伎の台本のなかの出来事ながら、歌ではなく、音楽の付かない台詞で場面が進行することで、劇中の「現実」以上にリアリスティックな迫力が生まれた。このようにして、『黄金の雨』は作品の構造のなかにオペレッタという形式をうまく取り込んだと言えるのではないか。
さらに、音楽そのものがとても素晴らしかった。作曲を担当した三人のうち二人は付き合いの長い友人なので、身内を褒めるようで恐縮だが、どうしても書いておきたい。楽曲群の質の高さが『黄金の雨』の作品としての質を格段に高めていたと言えるだろう。三人が分担して作曲を行なったということで、曲調は驚くほどバリエーションに富んでおり、それが劇に独特の躍動感を与えていた。しかし逆に言えば、一貫性を若干欠いてもいた。例えばワーグナーのライトモティーフのように作品を通して繰り返されるフレーズがあったりすれば、全体としてさらに聴きごたえのあるものになったかもしれない。
技術的な問題点もあるだろう。歌だけで劇が進行する箇所では、観客は歌の旋律と詞両方に意識を向けることになり、言葉の内容への理解がどうしても不十分になる。私は二度観劇し、劇評執筆のために脚本もいただいたので、内容をほぼすべて把握することができたが、一度観ただけの方はあやふやな部分も多かったかもしれない。もしも同様の試みを今後ピーチャム・カンパニーが行なうならば、一層の工夫を期待する。

 『黄金の雨』が伝えたかったこと

役者の皆さんは総じて生き生きとそれぞれの役を演じていらっしゃり、可笑しくて思わず笑ってしまうような箇所が何度もあった。歌舞伎俳優、猿八役の久我真希人さんや、胡散臭い老人、孫一役の磯秀明さんの軽妙な演技も印象的だったが、なかでも圧巻だったのは、虹ノ丞役の日ヶ久保香さんの熱演だ。虹ノ丞と掛け合いをする東西(歌舞伎一座のゴーストライター)や、由利之進(歌舞伎のなかでの蛇姫の想い人)の演技が物足りなく思えてしまうほどだった。虹ノ丞扮する小笹(中野長者伝説の伝える鈴木九郎の娘)が蛇に姿を変える場面は、効果的な照明と音響も相俟って本物の蛇が現れたかのような禍々しい迫力があったし、蛇姫となり池の底に棲むようになってから水面の泡を見て歌う場面の妖艶さにも惹きつけられた。そして何よりも劇終盤、虹ノ丞が、心中から生き残った経緯を語る場面。彼女の体を貫いたという「色のない虹」が、まるで目に見えるようだった。
しかし、ここで観客の多くは迷ったのではないだろうか。虹ノ丞を、そして人間たちへの怒りに震える蛇姫を貫いた「色のない虹」とは、結局何を意味するものだったのかと。そして、『黄金の雨』はそれを理解するための十分な手がかりを用意していなかったように私には思えるのだ。
実は最初の観劇後、一度この劇評を書き始めようとしたのだが、なかなか筆が進まなかった。劇が投げかけた様々な問いどうしが頭のなかでなかなか一つに繋がらず、混沌として、どこから書き始めたら良いのか分からなかったのである。「色のない虹」だけではない。例えば、東西の言う「流れることと、とどまること」、虹之丞が池の底で見た般若の面、登場人物たちにとっての「お金」、等々。それらを、第一義的なテーマと思われる「新宿」を介して理解しようとしてみたのだが、どうもうまくいかない。そもそも、『黄金の雨』が見せたかった新宿の姿とはどのようなものだったのか?
原作である中沢新一の『アースダイバー』に目を通してみよう。中沢はまず新宿の起源を語る中野長者伝説を紹介する。「資本主義の起源と本質を問題にしている」この伝説のなかには、富を得て高い身分を獲得した者は乾燥した高台に住み、その富に隠れた秘密を握る者は湿った低地に住むというかたちで「乾いたものと湿ったものの対立が印象的に語られて」いる、と中沢は書く。そして、その対立は資本主義そのものの二面性でもあるという。

資本主義は「乾いた」面と「湿った」面との、二面性をもっている。このことは、まず貨幣に象徴的にあらわれている。貨幣はものの価値を数量であらわす精神的な面と、その価値を印刷したり彫り込んだりしたお札やコインのもつ物質的な面との、二面性をもっている。貨幣の上で、精神的なものと物質的なもの、神につながる要素(乾いた面)と物質や肉体につながる要素(湿った面)とが、ひとつに結合しているのである。

中沢はさらにこう続ける。新宿においては、高台の乾いた地域にある伊勢丹や高島屋などの高級デパートでは、デザインと素材の美しさで精神に訴える「乾いた」商品が売られ、一方、湿地帯の上につくられた盛り場である歌舞伎町では、体液や粘液や乳液にまみれ、肉体に直接的な快楽をあたえる「湿った」商品が売られている。このようにして「あらゆる意味で乾湿が一体となった新宿という街は、商品社会のダイナミックな本質を、まるごとおもてにさらけだし、それによって時代は変われど、つねにあなどれない力強さを発揮してきた」。
『黄金の雨』が描こうとしていたのが、仮にこの「乾」と「湿」が一体となった新宿のダイナミズムだとするならば、『黄金の雨』における「湿」とは何だったのだろう。単純に考えると、それは池であり、その池に棲み魔力とエロティシズムを体現する蛇姫であり、さらにそれを演じる虹ノ丞だということになるだろうか。だが、それはあくまで中野長者伝説の枠内においての話である。現実の虹ノ丞は、「男でも女でもない」存在となって、結局最後には新宿を離れどこかへ虹のように消えてしまうのだし、登場人物たちにとって池はあくまで伝説の黄金が沈む池であるに過ぎないのだから。『黄金の雨』では、新宿の「湿」の面が中野長者伝説のなかに吸収されてしまい、十分に表現されていなかった感がある。
「オペレッタ」についての項でも書いたように、『黄金の雨』の特色は、登場人物たちの現実である1697年の新宿の物語と、中野長者伝説という彼らにとっての虚構であり過去でもある物語とがなす重層性にあるはずだ。彼らがその階層を飛び越える媒介となるのが歌舞伎であり、歌舞伎が進むにつれ、重層性は混濁し、彼らにとって現実と伝説とは互いに絡み合ったものとなる。その様は、遠い過去にまで根を張る新宿のダイナミズムを表現したものだと言うこともできるかもしれない。ただ、結局のところ、登場人物のなかで伝説に肉薄できたのは虹ノ丞ただ一人だった。歌舞伎のあと、他の人物にとっての現実は変化しただろうか? 劇からは、東西の脚本が降らせた黄金の雨が彼らに教えたことくらいしか読み取れない———お金の価値は所詮人間の決めたもので、時が流れるとともに変わってしまうのだと知った、というような。だがこれだけでは物足りない。現実と伝説との照応をより綿密に示せば、時間を越え、聖と俗とにまたがる、一層ダイナミックな新宿を表現できたのではないかと思われるだけに残念である。
『黄金の雨』が描いた新宿の姿は、私にはぼんやりとしてよく見えなかった。様々な問いを提示するあまり、本当に伝えたかったはずの何かが拡散してしまったか、あるいは反対に、本当に伝えたいことが何かが曖昧であったために、派生する様々な問いへの答えまでも伝え損なってしまったか、という印象が否めない。

 日常と演劇

最後に。今回の公演で、作品の内容とは直接関係がないがとても印象に残ったことがある。
『黄金の雨』の公演が始まったのは、3月11日の大地震からちょうど一週間後だ。私の住む地域は東京近郊でも特に被害がひどく、道が裂けて泥が吹き出したり家々が傾いたりと、まるで見たこともないような風景に変わってしまい、一度目に観劇した3月20日にはまだ上下水道も止まったままだった。もちろん家族や友人がみな無事でいられたことに勝る幸せはないのだが、あまりに非日常的な日常のなかに突如放り出されて途方に暮れたような状態だった。でも、今回の公演は、私を確実に励ましてくれた。これだけ書くとずいぶん陳腐な感想のようだが、このことには理由がある。
日本はいま「頑張ろう」ムードに湧いている。確かに励ましは美しい。だがシニカルな私はこう思ってしまう。「誰かの苦しみに想いを馳せて、励ましの言葉をいくら沢山かけたとしても、その苦しみは所詮その人だけのもので、本当に分かち合うことなど出来ない。人は自身の苦しみにたった一人で立ち向かわなければならないのに」。だから、例えば「被災地の人々を元気づけようと」作られる応援ソングなどは、自身の音楽の持つ力を過信しているようで正直見苦しい気がするのだ。
この状況下で、ピーチャム・カンパニーも公演を行なうか否か相当悩んだという。しかし、彼らは公演決行という選択をするのに、演劇の持つ力などは問題にしなかった。開演前の挨拶で、劇団代表の川口典成さんはこう言った。「われわれにとっての日常、それは演劇を続けることです。今回の震災で被害にあわれた方々に思いを致しながら、われわれはわれわれの日常を続ける、演劇を続ける。そう思い、今回の公演の上演を決意いたしました」。
どんなに大きな楽しみも、それが日常と切り離されている限り、やがて我々はそこから離れて日常へと帰って行かなければならない。我々に過酷な日常を受け入れる勇気を与えるのは、何よりも人が自らの日常を真剣に生きてゆく様ではないだろうか。ピーチャム・カンパニーの演劇のなかには、その真剣さがあった。観客を非日常によって楽しませるためではなく、自らの日常を真摯に貫くために演劇をするという彼らの姿勢に、私は敬意を表したい。

棚瀬あずさ(たなせあずさ)
東京大学大学院修士課程在籍。専門はスペイン語文学。19世紀末から20世紀初頭にかけて活動した詩人ルベン・ダリーオの作品研究を行なう。また、ダニースミス・プロジェクト(http://www.dannysmithproject.com/)にてバイオリンを担当。

丸房紀美子氏による劇評


(3月26日ソワレ観劇)

芝居はあたり前と見えるのがよいし、無理と無駄との無いのがいいと思う。力が内にこもっていて騒がないのがいいし、悪い芝居は大抵余計な努力をしている。そんなに力を入れないでいいのにむやみに飛んだり、跳ねたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。古典の立派な題材を使って、わざと現代風に書いてみたりもする。演劇興って悪行天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。

私は初めてワダタワーという役者を観た。「イヌ物語」から何回か彼の出演している作品を観てきたが、彼に注目することはなかった。この頃は現代風な演劇がひどく流行して来て、世の中に悪い芝居が横行している。なまじっか習った能の真似事のような脆弱な型を披露する劇団や、擬態するように、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた芝居などを随分目にする。ワダタワーはむしろ稚拙野蛮だその役作りは実に初心で、まるで習いはじめの人のように芝居がはねたりする。馬鹿にのんびりしていたり、又くしゃくしゃと喋りつめる。たるんでいるように視線を動かしたり、横に曲げたり、会話の流れも疎密にかまわない。音が片よったり、気くばりがでこぼこだったり、体の大小も方向も気にとめない。そして一々ぎゅっとおさえて芝居をする。何しろひどく不器用に見えていた。 それでいてワダタワーは大きい。実に大きな感じで、これに比べると聞きやすいだけ、体面が整っているだけの役者がなんだかよそゆきじみて来る。何よりもワダタワーの芝居は内にこもった中心からの気魄に満ちていて、しかもそれが変な見てくれになっていない。強引さがない。よくリアル演劇を標榜する役者にいやな力みの出ているものがあるが、そういう厭味がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思うままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入しようとしていて、実に立派だ。

前回公演から一年と経たないうちに、以前観たピーチャムカンパニーの芝居とは思えないほどどこにでもある詰まらない演劇に改まっていたが、うまいけれどもつまらない演劇のやり方なのに驚くような事も時々あった。これはピーチャムカンパニーとしての過程の時期であって、やがてはその習字臭を超脱した自己の演劇にまで抜け出る事だろうと考えてみずから慰めるのが常である。やはり芝居は習うに越した事はなく、もともと芝居というものが人工に起原を発し、伝統の重畳性にその美の大半をかけているものなので、生れたままの自然発生的の芝居のやり方にはどうしても深さが無く、その存在が脆弱で、甚だ味気ないものである。

演劇はもとより造型的のものであるから、その根本原理として造型芸術共通の公理を持つ。比例均衡の制約。コミュニケーションの生理的心理的統整。布置構造のメカニズム。感覚的意識伝達としての知性的デフォルマシヨン。すべてそういうものが基礎となってその上に美が成り立つ。そういうものを無視しては芝居が成り立たない。芝居を究めるという事は造型意識を養うことであり、この世の造型美に眼を開くことである。演劇が真に分かれば、絵画も彫刻も建築も分かる筈であり、文章の構成、生活の機構にもおのずから通じて来ねばならない。芝居だけ分かって他のものは分からないというのは分かりかたが浅いに外なるまい。役作りがその人の人となりを語るということも、その人の人としての分かりかたが役に反映するからであろう。

堂下勝気・磯秀明らは、人生の造型機構に通達した偉人であり、芝居というものが如何にして捉えられるのかを予め知って、しかも従容として観客の視線が迫るのを直視していた其の態度の美が彼らの比類無い語り口の豊かさや立ち居振る舞いに歴々と見られる。斯の如き芝居を行えるものは正に斯の如き経験ある人物である。重ね足る年の貫禄があっても天真さに欠け、一点柔媚の色気とエゴイズムのかげとを持つ鼻が高いだけのの役者などと思い比べると尚更はっきり此事がわかる。芝居を学ぶのはすなわち造型美の最も端的なるものを学ぶ事であり、ただ芝居がうまくなる勉強だけでは決してない。彼らには人の心を動かす卓抜した技術が見える。

3000円という馬鹿げた安値で、ワダタワーのようなこれからの役者と、堂下勝気・磯秀明のように円熟期をもうすぐ迎えようとしている俳優が一つの舞台でぶつかりあっている、物語の構造や独自の演出などにはあまり興味がない、演劇は人が作るものであって、それ以外を殊更強調したところで何の意味もない。巨大なエネルギーの塊が一つの作品を形成しようと全力で衝突していく様を観ている時ほど生の実感、人間の素晴らしさを感ぜられる時はない。至らない部分が多く、またそれに気付いていたとしても手の打ちようがないであろう幼子のような劇団ではあるが、己らがやりたい事をやろうとする尊厳のようなものが感じられる。

今回の作品は部分で語れば詰まらない所の方が多かった、終演後の新宿はいつもと同じように見えたし目の醒めるような劇的な体験という訳でもなかった。しかし過程の時期である、公演を経るごとに優秀な人材が集まり勢いは衰えない、公演を行うということは劇団の体力を消耗する一大イベントではあるが、それがなければ劇団である必要はないし、団体として連続性のある動きを取れないのなら団体名を作品に冠する必要もない。身を削りながらも真摯に芝居に取り組んでいる彼らを、毎回観たいと思ってしまうのは、策を弄さずに出来ないことは出来ないままに素直に舞台にのせる意気込みに惚れているからだろう。

相手がこう言ったらこう言おうとか、八百長じみた段取りの観えてくる芝居は生きた臭いがしてこない、死に体の芝居を観ることほど苦しいことはなく、生きた人間が、その生きた有様を曝け出し、悩み傷つき口付けし頬を張り合う、真剣勝負の真面目さは、それだけで観るべき価値のあるものだと思う。2時間を越える芝居だ、奇を衒ったら大惨事を引き起こしかねない。演劇の魅力は会話に尽きる、一見して平凡な芝居も内心から閃いてくるものの観える時はたちまちに、その平凡と単調の中に日常では目撃することの出来ない非凡が現れてくる。女山に恋をしてしまう百姓女を演じていた女性などは表現のなんたるかを示してくれていた、結局表現は表に現れなければ造型的の美を獲得しえないが、何を見て、どう感じ、いかにして伝えるかの選択は役者に任せられているのだ。その自由を奪う高圧的な演出は人を観せるためではないし、面白い芝居を作りたいという至極単純な欲求ですらない。芝居を観て、あの演出手法は素晴らしかったなどと言われてしまうのは演出家がアフェクテエション一点張りの凝り固まった人間だからだ。

それを思うと今回は、一人ひとりの役者が作り出す各々の世界観を一所で観察出来る演劇ならではの面白さがあり、演出家が何を勘違いしたのか作品中に役者を押さえてしゃしゃり出てくるような舞台は演出家の一世界観しか感じられず浅く単調でそこに劇的な要素は含まれていない。しかし残念なことに、己を曝け出せる役者があるからこそ、そうでない役者が目に付くのも事実で、一見すれば上手いように見えるが、相手の言葉を聞いてセリフを発していないように見えてしまう事があるから流れとして違和感があった。特に前半は何を想って喋っているのかというのが見え辛く、物語の内容は追えたがそれだけで終わってしまった感がある。話が進むにつれて声の出し方も奔放になり観ていて飽きない状態になってきたが、歌を歌う時に直立不動だったのは残念だった。前回の「口笛を吹けば嵐」の歌い方が良かったから、タイニイアリスの空間の狭さばかりが目や耳につく残念な仕上がりであった。良い歌もあったが、ピーチャムカンパニーの芝居との相性とでも言うべきなのだろうか、天井高は2倍はあった方が良いし、背景も街一つはなくてはならないと思う。あまりに狭い空間で小さくまとまってしまっていたし、照明や音響もあの空間を変容させることが出来ていなかった。あの劇場とバックバンド、マイク位置を使い倒したのは岩崎雄大だけであろう。バックバンドに音が呑まれてしまう中で、ラストの台詞を朗々と語り上げる姿には拍手を送らざるを得なかった、それまでパッとしない岩崎雄大だったが、その瞬間に挽回したので私は良い役者だったと思っている。

会話に主眼を置いた平凡な演劇というものが一般の人が考えている以上にすばらしいものだということが、ピーチャムカンパニーを観ているとだんだんよく分ってくる。此の劇団の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがする。為ることはのろいが、しかし確かで、志し高いの俳優にも恵まれていて、今にこれがみんな世の中で認められるようになったら、ピーチャムカンパニーは日本の宝になるでしょう。

丸房紀美子(まるふさきみこ)
1986年に山形に産まれ、高校を出て直ぐに上京し歌舞伎町や東京駅界隈でその日暮らしをし、現在は障害者団体にてWEBショッピングモールの管理を担当。好物は芋ようかん、とりわけ舟和本店の芋ようかんを好む。

矢野靖人氏による劇評

イメージの連鎖


ピーチャムカンパニーのオペレッタ「黄金の雨」初日3/18(金)を観劇した。

ピーチャムカンパニーは、劇団サーカス劇場と劇団地上3mmのメンバーが合流し設立したカンパニー。いまどきの若手カンパニーには珍しく劇作家、演出家、プロデューサーの三者が独立した構成の、劇団/集団としての可能性を感じさせるカンパニーである。

今回の作品は、思想家・中沢新一の『アースダイバー』を原作にした、劇作家・清末浩平の脚本によるもの。

僕は何よりもまず、劇評を書くにあたって、今回のこの劇作家の試みを、演出や俳優を評価するより前にこの巨大な思想家の書籍を原作として創作をしようと考えた彼(ら)のその意気込みをこそ買いたいと思う。

特筆すべきはまず、オリジナルの戯曲でありながら、(原作としてクレジットされている『アースダイバー』のみならず、)様々なテキスト、戯曲に限らず思想書や、その他たくさんのテキストの引用から成り立っていることだ。

当日パンフレットに曰く、「参照および引用させていただいた主な資料」には、中沢新一『アースダイバー』、「カイエ・ソバージュ」シリーズ、『虹の理論』他多数。アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ『かもめ』(訳=神西清)。泉鏡花『天守物語』、『夜叉ヶ池』。上田秋成『雨月物語』。ガストン・バシュラール『水と夢』(訳=小浜俊郎、桜木泰行)。谷川渥『鏡と皮膚』。田村隆一「十月の詩」。近松門左衛門『冥途の飛脚』。中上健次『地の果て 至上の時』があるという。

残念ながら自分はこれらすべてに目を通しているわけでなく、どの程度引用や参照がされているのか分からない部分もあったが、それをおいてもこれだけの著書を参照しているという時点で、しかもそれを詳らかに紹介している時点で、(これはひょっとすると誤解かもしれないが、)作家の依って立つある姿勢、即ち「新しい物語など何もない。物語を物語る時代は終わってしまった。」という姿勢を反映しているようで、非常な共感を覚えた。

一演出家として、自分のカンパニーで古今東西の古典を扱って来ている自分にとって、劇作家が新作戯曲を書くということは、それらの古今の戯曲やテキストと正面から向き合い、戦いを挑むということではないかと考えている。

だがしかし、そのような心意気を感じさせる劇作家に出会うことはなかなかに少ない。それが成功しているかどうかはさておき、このような心意気を感じさせる劇作家に、しかもそれが知識人のスノビズムに陥ることなく、“誰が見ても楽しめる”エンターテイメントに仕上げようとしている(それは彼らがオペレッタという形式を選びとったことにも示されているように思う)若い作家に出会えたことを僥倖に思った。

ストーリーを紹介すると、舞台は「1697年、新宿誕生前夜。現在新宿と呼ばれている土地に、かつて大きな池があった。同地の伝説によるとこの池は、室町時代に巨万の富を築いた「中野長者」の娘が、財産のために殺人を繰り返した親の因果で蛇へと変化し、その際に降った大雨でできたものであった。時は過ぎ、1697年。新しい宿場町の建設を目論む浅草の商人がこの地へやってきた。彼らは町おこしのために、旅の歌舞伎一座を雇い、芝居を作らせる。「中野長者伝説」にもとづく芝居の稽古が始まったところへ、「中野長者」の末裔を名のる男が乱入。池の底の大蛇をめぐり、町おこしとそのための芝居とは、思わぬ方向へ転がってゆく……。」(公式サイトからの引用)

戯曲の話になるが、この劇中劇を書く登場人物、座組みの半端物である東西(浅倉洋介)の人物設定が良かった。これは僕が個人的に、物語を紡ぐ物語が好きなだけかもしれないが、(とすると劇評でも何でもなくなってしまうのだけれども、)

例えばジョニーデップ主演の映画『ネバーランド』や、二コール・キッドマン&ユアン・マクレガー主演の『ムーランルージュ』のように、誰かのために、生きるために物語を必要とする人間の本性を、僕は無条件に信じる。東西の求める「新形式」の、(これもチェーホフ「かもめ」からの引用だが、)それを求める熱量にとても強く胸を打たれた。

出演者全員で「アースダイバー!」と歌う作品後半のナンバーも良かった。バンドの生演奏が伴っていたこともとても贅沢な気持ちにさせられた。音楽と歌詞を聴きながら事前に読んでいた中沢新一の『アースダイバー』冒頭に書かれていたネイティヴインディアン(アルゴンキン・インディアン)の神話と繋がって、イメージが連鎖して妄想が走った。

先述した『ムーランルージュ』のように、オリジナルがもともとある楽曲(あるいはエピソードや既存の物語そのもの)を引用して、その場で起こっている出来事に重ね合わせるようにして観客の頭の中にその引用された物語や楽曲を響かせ、イメージを連鎖させて結果感動を増幅させようとするその方法は、先にも書いたように物語が“終わってしまった”今、改めて物語を紡ぎだそうとする際、とても有効だと思う。

俳優は、虹之丞を演じた日ヶ久保香が良かった。訓練は少し足りないが、素質がある。発せられる言葉にからだが伴っている。肉声、といえば好いのだろうか? 人間に発語の衝動、乱暴に換言すれば「他者と繋がりたい」という衝動があったとして、その衝動と「言葉」とはしかし常に隔たりがある。それ自体はどうしようもなく、ある。その隔たりを持ちながら、それを乗り越えて言葉を届けられる俳優が僕はとても好きだ。その声は頭ではなく人の胸にダイレクトに届く。

あるいはこれも、彼女の演じる蛇姫の役が、泉鏡花の『天守物語』や『夜叉ヶ池』の引用、翻案からなっていて、僕は彼女を見ながら彼女を通して、過去に上演された泉鏡花作品に出演していた女優たちや、映画『雨月物語』に出てくるような、ノスタルジーと妖しさを感じさせる映画女優たちを見ていたのかもしれない。妄想が膨らんで、彼女を通して実物以上にイメージが増幅されていたのかもしれない。しかしそのような体験を引き起こしてくれたのはやはり彼女だ。彼女を観ることができただけでも、今回劇場に足を運んだ価値があったように思う。

残念だったのは、しかし演出や演技の形式と戯曲の文体とが、今ひとつ一致している感じがしなかったことだ。

どちらが悪いというのではないが、一演出家として眺めてしまうと、やはり演出に物足りなさを感じざるを得ない。戯曲の描いている虚構性を、虚構として虚構のままに現実感(リアリティ)を与え得るだけの方法/様式が不在であったといえばいいか。言葉の虚構性に身体の虚構性が追い付いていない。奇しくも「新形式」を求める劇作家の物語でもあっただけに、その点が悔やまれた。

虚構性という言葉がなじまないのであれば、圧倒的な猥雑さと言ってもいい。新宿という街を描く以上「感覚に訴えかけてくる、直接的で悪趣味なもののほうが、ここにはふさわしい。」(『アースダイバー』第2章「湿った土地と乾いた土地」より。)

言葉が非日常のものである以上、身体もそれにふさわしい非日常性が必要なのだ。

勿論戯曲にも少なからず難がある。「新しい形式」を求めながら、それを演出の領分に預け過ぎてしまっている。もっとテキストのレベルで形式を獲得することができるはずだ。唐十郎の影響を強く意識しているという清末だが、圧倒的な、怪物のような俳優がいた60年代と今の時代とは決定的に俳優の質感が異なる。そこには何か、もう一工夫が欲しかった。

引用も、せっかく原作を中沢新一の『アースダイバー』にしながら、けっきょく「中野長者物語」の引用のみに終始してしまっている感がある。

中沢新一の『アースダイバー』の思考はもっと自由で融通無碍だ。新宿の街を眺めながら時間を垂直に、縄文時代へとバーチャルに重ね合わせていく筆力は実に圧巻だ。原作の方が面白い、というのではまだまだ劇作家としては力不足だろう。もっと劇作家としての体力を身につけてほしい。その点について、次回以降も中沢新一作品に取り組む予定があるようなので、ぜひとも今後に期待したい。


矢野靖人(やの やすひと)
shelf演出家・代表。shelfでは洋の東西を問わず、毎公演、古典テキストを中心に大胆に再構成。同時代に対する鋭敏な認識、空間・時間に対する美的感覚と、俳優の静かな佇まいの中からエネルギーを発散させる演技方法とを結合させ、舞台上に鮮やかなビジョンを造形し、見応えのあるドラマを創造する手腕には定評がある。

武岡暢氏による劇評

(2011/3/19ソワレ観劇)
演劇には「目的」がある、という半ば規範的な仮説から始めてみようと思う(つまり、「目的」があった方がよかろう、という含意がある)。この文章の結論は、『黄金の雨』という演劇の「目的」が何なのか、私には最後まで分からなかった、ということだ。これは書き手に恐怖心を催す結論である。というのも、単に私が分からなかっただけで多くの観客は分かったかも知れないし、私の観劇態度が不誠実だとか非難されるかも知れないからだ。明らかに作り手と受け手が共有している「目的」の不履行や技術的な欠陥を指摘する劇評の安全さはここにはないが、その危険を私が私の名前で引き受けることが、否定的な見解を申し立てるという所業のバーターにでもなればありがたい。『黄金の雨』は、たしかに良いところも多く持った作品であったが、もっとも肝心なところでは望ましくない性質を備えていたのではないかと私は思う。そのことを言うために、まずは、演劇にも「目的」があるだろう、という仮説から始めてみよう。
この仮説を提示する私は、この仮説の妥当性をめぐって誰とでも議論をする心構えがある。つまり仮説は批判に開かれているということを言いたいのだが、まずもって誤解されないようにもう少し説明したい。「目的」という語で指し示したかったのは、関係者(つまり作り手と受け手)の全員がそれに奉仕すべき何か単一のものなどではない。そのような抑圧的な作用を持ちうる大義名分というよりは、むしろ関係者ひとりひとりによって重なったりずれたりする多層性を許容しながらも、完全な個別性には発散しない、何らかの共同的なもの、というくらいの、極めて緩やかなものとして考えている。
より具体的に言い直せば、たとえ単一の共通目標を持たないにせよ、演劇の「目的」とは受け手の内面に何らかの変化や感興を呼び起こすことであると、ひとまず前提したい。作り手が受け手に一方的に何かを与えるというような単純な伝達ではない、共感や対話、対決や緊張といったものまで含み込んだ多様なコミュニケーションを、舞台と観客のあいだに生じうるものとして想定することは言うまでもないにせよ、その結果としての観客の感興こそが演劇の「目的」である(くどいようだがこれは仮説だ)。ひとりひとりの観客に生じる感興の具体的な内容は、同一の上演に対しても様々なものがあるだろう。それにしても何かしらが生じることを私たちは望ましいと考えるし、心ある人で劇団四季を批判しない者がないのは、その上演が観客に何かの感興をもたらしたように見せかけてその実、いかなる真正な感興をももたらしていないからではないか。つまり、真正性を備えた感興をもたらさない演劇は望ましくない、と言い換えてもよい。
それでは単に「私は何らの感興をも覚えなかった」と言えばよいではないか、回りくどいことを言うな、と叱られるかも知れない。しかし私が「目的」という語を持ち出したのは、何も徒に大上段に振りかぶった議論を仕掛けるためではない。そうではなく、本公演のチラシや挨拶文でたびたび目にした、劇団の提示する「目的」と対話を試みるためである。
私には、「いつもとは違う新たな都市への眼差し」(DMに同封されていた演出家川口典成名義の告知文)や「新たな街との出会い方、街での生き方」(チラシ)を何らかのかたちで観客のなかに生じさせることが、劇団が提示するこの作品の「目的」であるように読み取れた(議論を複雑にするようで申し訳ないが、私がこれらの文章から「目的」を読み取ったことと、実際の上演から「目的」を受け取れなかったことは、差し当たって別のことである)。
あまりチラシの文章に寄りかかる劇評が高級だとも思えないからさっさと結論だけ言ってしまう。もし観客が都市との新たな関係を取り結ぶことを作品が目指すのだとすれば、その成否は、上演が、単に文章を(例えば中沢新一の『アースダイバー』を)読むのよりも鮮やかに、あるいは切実に、関係の新しさを観客に生じさせるかどうかにかかっている。しかし、新しさは私のなかに生じなかったし、何よりも重要なことに、新しさを生じさせることが本当に目的なのか、そもそも目的があるのかどうか、上演からは私は分からなかった。
繰り返しになるが、もし私が上演を通じて「目的」を理解し、それが成功していたとか失敗していたとか書くのだとすれば話は簡単である。あるいは「目的」の分節化された理解がなくとも何かしらの感興を覚えていたら、それを分析しようとする劇評もあり得る。既に書いたように、『黄金の雨』には良いところも沢山あったので、作品全体を貫く軸(=「目的」)との関連でそれを書きたかったが、残念である。やむなくばらばらに書くと、美術(水谷雄司)は入場した観客の注意を真っ先に惹き、求心力を持ちながらも出しゃばりすぎず秀逸であるし、ゴールドレイン楽団の手になる楽曲は、演奏にもう少し改善の余地があるにせよ、面白かった。意外な嬉しさとしては、ミュージカルという形式が一種のパロディあるいはキッチュとして、ピーチャム・カンパニーの劇団員と準レギュラー陣を中心とした俳優たちにとてもよくフィットしていたことである。歌唱そのものは短期間でどうにかなるものではないから言い立てるだけ野暮だとして、現代口語演劇的なおとなしい身体には収まらないぞという気概が感じられることは、この劇団の持ち味でもあり、その気概とミュージカル形式とが幸福に結びついたものと、頼もしく感じる。忸怩たる思いで告白すると衣裳や照明については評価しうる目を私は持たないのだが、脚本と演出の、日本の古典芸能を自由に活用していたのは良かった。ともすれば演劇は「形式」という言葉にこだわるあまり、何か体系的で一貫した「方法論」と心中しようとしがちであるが、私はもっと自由に個別の「方法」(≠方法論)を既存の作品や他ジャンルから学び駆使してよいのではないかと思う(これはク・ナウカが文楽を身も蓋もなく応用して圧倒的な成功をおさめたのを見て以来の考えである)。演出の川口は歌舞伎や能、あるいは文楽からも断片的に役に立つ方法を拾ってきて、舞台の崩壊を防ぎ、観客の関心を惹き続けた。古典芸能を、パロディとしてよりはむしろ単純に「役に立つ」こととして正面から用いたことがよかった。俳優では、おツネ(小野千鶴)は登場するなり舞台の空気を引き締めた。端的に言って小野の登場までのシーンでは科白が役者のからだに落ちておらず、「会話」が成立していなかったために、私にはほとんど内容が飲み込めなかった。それがおツネの登場後は舞台全体が安心して見られるようになったのは大きな効果である(たったひとりの俳優の演技の充実によって空気が一変しうるというのは舞台の面白さでもあり恐ろしさでもあると思う)。ただ登場してすぐの「良い」類型的描写が、一幕中盤くらいから「良くない」類型的描写に横滑りしてしまったのは、戯曲がそういう風に書かれていたとはいえ、出だしが良かっただけに残念であった。ここは小野自身とともに演出家にも、持ちこたえてほしかった。
以上のように、よいと思った点は多くあった。しかし、ここでいま一度、文章を演劇の「目的」に差し戻したい。やや控えめになってしまうが、『黄金の雨』の「目的」を、四つ、推測して検討することにしよう。私は、作品の「目的」を受け取ることは出来なかったし、これが「目的」だろうとリーズナブルに判断できるようなものもなかった。そこで、自分でも妥当性に自信がなくはなはだ頼りないのだが、これが「目的」かも知れないと思われる要素を弁別して検討しようというわけである。便宜上個別に書き分けているが、ひとつの上演がひとつの「目的」と対応すべきだと考えているわけではない(むしろ優れた演劇はいくつもの「目的」を複合的に達成するだろう)。
さて、第一に推測される「目的」は既述の通りであるが、端的に言えばこれは上演を通じた都市の異化である。そしてこれも上に書いたことだが、その異化は単に言語を通じた知識の伝達という手段ではなく、あくまで演劇として、つまり、役者の肉体を通じて行われる必要があるだろう。これが「目的」なのではないかと推測する根拠としては、そもそも『アースダイバー』を「原作」の位置に置いていることが傍証となる。中沢新一の『アースダイバー』の「目的」は、明らかに、縄文時代の地形が現在の東京と様々に「符合する」ことの面白さを提示することにある。目に見えないが確実に足下にあってまさに都市の土台となっている地層が、われわれの気づかぬうちに現在にまで影響を及ぼしていることを発見することが面白いと言えるのは、極めて強力に現在中心主義的である都市/都市社会に対して持つ異化の作用ゆえであろう(余談だが私自身はこの「現在への影響」を説得力とともに受け取ることが出来ずに、読了しても、縄文と現在は面白く架橋されはしなかった)。ところが、それを演劇化したという『黄金の雨』には2つの困難がありうる。ひとつは、例えば『アースダイバー』のような都市の異化が、演者の肉体を通じてどのように可能かがまったく不明であることだ。フォークナーや阿部和重に見出されるような、あたかも都市そのものが人間に対して不気味な規定力を持つかのような作品を成立させることは、小説においても至難の業であり、演劇においてはそれが達成されうるかどうかすら私には分からない。しかし、たまたま都市を舞台にした作品であったという以上に「都市」に関わろうとするならば、都市が人間に及ぼす何らかの規定力を把握する必要があろう。困難のいまひとつは、実は、優れた演劇は都市をテーマにせずとも都市を異化してしまうことである。良質の芸術は、演劇に限らずとも、われわれの目に映じる風景を変容させる。おそらく『黄金の雨』が目指した(と推測される)のはそのような「世界が違った風に見える」という体験の、より特定化されたかたちだったのだろうが、しかしそれはその抽象的な「世界が違った風に見える」のとどのように違うことだったのか。ふたつの困難のいずれについても、何かの回答が与えられているとは見えなかった。
第二に推測される「目的」は、ある登場人物のビルドゥングスロマンの提示である。しかし作品を未見の読者に対して「ある登場人物」とぼかして書かなければならないほどに、『黄金の雨』は、人物に関して構造化されているとは言いがたい(いわゆる「主役」が誰なのか分からないことを含む)。少し説明の労を省いて書けば、つまり、戯曲上にはひとりとして生きた「人間」が出てこないし、演出がなんとかそれぞれの登場人物に人間味を持たせようと苦心しながらもとうとう「会話」を成立させることに多くの場面で失敗している。素人の私がこんなことを言うのはまさに釈迦に説法だろうが、ローゼンクランツとギルデンスターンのような周縁的な人物までもが全て戯曲の段階で生きているべきだとは思わない(これは俳優がそのような人物を「人間」として演じる必要がないことを意味しない)。ところが『黄金の雨』ではひとりも「人間」ではなく、そのせいで、もはやどの登場人物が登場人物として必要であったのかがよく分からなくなってくるのである。もしビルドゥングスロマンあるいはそれに類する物語による感興が「目的」であれば、まずは最低その人物は「人間」として描かれなければならない。「人間」を描くということは、少なくとも戯曲のレベルでは、何も苦心惨憺して限りなく真正な人間像を提示するというよりは、いくつかのちょっとした方法(「思想と感情の葛藤」とか「善悪の二面性」、「剥き出しの自我」や「シラけてしまわざるを得ない私」など)を駆使するという程度のことではないかと思うが、むしろ脚本の清末浩平はそれらの方法の卑小性を忌避しているようですらある。しかし私にはそのような半ば陳腐化した方法も使い方次第であると思うし、それらの方法なしの『黄金の雨』が「人間」描写に成功しているとも思えない。まして「人間」の出てこない作品がどういう意味で望ましいと言いうるのかについては見当がつかない。
第三に推測される「目的」は、別の登場人物の担う「詩」である。ただし正直に告白して私はほとんど詩という言葉の巷での使われ方や意味を理解していないので、力弱いことしか言えない。力弱く言おうと思うのは、演劇の詩とは、独立した単独のいわゆる詩とは違って、劇世界によって支えられる必要があり、劇世界との関係において成立する種類のものであるべきであり、やはりその根拠は俳優の肉体に求めるべきだろう、という程度のことである。しかし、『黄金の雨』によって「目的」の可能性があると思われたその当の詩と言えば、端的に劇世界から遊離していて心に響かなかったし、また科白を与えられた俳優はそれを支えられていなかった(戯曲において遊離している詩はどんなに優れた俳優であっても支えることは困難であろうが)。もっとも全体を見れば、脚本家の持ち味である詩の良質なものも含まれていたのだが、しかし「目的」になりそうな部分の詩はあまりよいとは思えなかった。またせっかくの良質な部分には、それを際だたせる演出がつけられていなかったようにも見受けられた(例えば最初の歌などは、上演を見るよりも文章で読んだ方がよかったのではないかと思う)。
第四に推測される「目的」は、劇中劇が展開して落着する、その結末の提示である。たしかに『黄金の雨』において基本的に物語の推進力を担うのは、「新宿」誕生前夜の1697年に、その「新宿」が誕生するかどうかのかかった町おこしに関わる劇中劇がどのように展開するか、という観客の関心である。しかしその関心は劇の後半において失速し、劇中劇がどのように発展していくかというようなことが、どの登場人物のどのような切実な利害と結びついているのかそういえばあまり理解していなかった、と観客は悟るのではないか。
以上、「目的」についての四つの推測をもとにその失敗を論じたが、この四つというのは互いに排反ではなく重なり合うところもあり、また何より推測の域を出ないというほどの頼りないものである。推測の失敗について考えるというのもまさに隔靴掻痒だが、私が客席にふんぞり返って「どんな面白いものを見せてくれるんだ?」と傲岸であったのではなく、能動的に舞台に対峙したことを示したくて紙幅を費やした。
もはや結論に到達し、擱筆を目前にして気づいたが、タイトルにも示唆されている「お金/資本主義」が作品において果たした役割について書き漏らしていた。とはいえ私には、それがどんな役割を果たしていたのか、やはり分からないのである。「お金/資本主義」に関する諸々も、やはり「目的」ではないだろう。「目的」は、改めて確認するまでもないが、戯曲と演出に依存する。全体を見渡せば、戯曲を「成立」させようとする演出の努力は些か総花的、対症療法的で、アーティキュレーションが不足していた。力を入れて演出すべきところと力を抜いてもよいところの違いは、戯曲の各部分の良し悪しというよりは、やはり「目的」との関連で決まるということが、どこまで自覚されていたか。劇団に座付きの作家と演出家がいる体制を取るからには、改めて考えられてよいポイントではないかと思う。作家と演出家の対話にもとづいた創作プロセスが実践されないのであれば、既存の戯曲を上演するなりした方がよかろう。
私は、さまざまに作品に盛り込まれた工夫や努力、そして何よりも俳優の魅力を、「目的」との関連から論じたかった。それが演劇を、作品を鑑賞するということだと思うからである。個別の要素の寄せ集めではなく、題名を持ったひとつの作品を鑑賞するというのはそういうことだろう。しかし、『黄金の雨』という演劇の「目的」が何なのか、私には最後まで分からなかった。


武岡暢(たけおか とおる)
1984年、東京生まれ。東京大学文学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専攻は社会学、とりわけ歌舞伎町でのフィールドワークに基づいた繁華街の都市社会学。